透明になりたい旅鴉

ギター片手に国内外を旅する哲学徒の旅行記・雑記

メソポタミア平原と、砂の城塞、マルディンの街並み。

  マルディンは、トルコの南東部、シリアとの国境に近い砂岩の町である。メソポタミア文明を養ったティグリス川とユーフラテス川の二本の川に囲まれているマルディンを含むトルコ南東部、シリア、イラクの北部の一帯は、「アッパー・メソポタミア」、あるいはアラビア語で「島」を意味する「アル・ジャジーラ」と呼ばれている。マルディンはパッチワークされた畑の緑を除けば、一面土色の茫漠とした平野部に突如迫り上がる山の斜面に作られた町で、眼下には広大なメソポタミア平原が広がっている。

 

 2019年8月の現時点で外務省のホームページを確認すると、マルディンの街を含むマルディン県は危険レベル3「渡航中止勧告」が公布されている。最後に更新されたのは2018年の11月のようだから半年以上前のことだけれども、さすがに私も行くのにはためらいがあった。この地域には地理上クルド人が多く住んでいて、シリアとの国境付近ではクルド人武装勢力と治安当局との衝突などが2018年までしばしば起こっていた。

 

 それでも私はこの地域にとても興味があったから、どうしても行ってみたいと思い、事前に何人か事情に精通していそうなトルコ人に聞いたり、インターネットで関連した記事を読んでみたり、治安に問題がないかどうか綿密に調査していた。すると返ってきた答えは満場一致で、これまで問題があったのはより辺境の地域で、マルディン自体には警察も多く、まず安全であるとのことだった。

 

 たまたま友人が譲ってくれた地球の歩き方にも数ページが割かれているのをみると、そこまでマイナーな場所ではないようだけれども、この地域に観光する外国人は少ないらしく、チケットをとったバス会社のスタッフには「マルディンは観光地じゃないよ」と言われてしまった。

 なぜそんなところに行きたいと思ったのか、話はそれから一週間ほど前に遡る。

 

 私はクシャダスという、エフェソス遺跡のあるセルチュク近郊のリゾート地に来ていた。というのは、インドでとても世話になった恩人がインドからトルコにちょうど旅行に来ていてクシャダスに滞在する予定だというので、そこで待とうと思ったのだ。

 宿代を節約したかった私は、随分前に登録して一度も使ったことがなかったカウチサーフィンを試してみようと思い、クシャダスに住んでいてホストになれると表示されている数人にメッセージを送ってみた。その中に一人、泊めてあげてもいいよという返事をくれたトルコ人の女性がいた。彼女の名前はオルジャンと言った。

 地質学を大学で学び博士号までとった彼女は、地下資源の採掘関係の仕事につくべく就職先を探しているとのことだった。もともと都会っ子だったのが、家で植物を育て始めたらそれが心をとても穏やかにしてくれると気づいて、自然の中で暮らすことを望むようになり、オーストラリア人の夫と共に鄙びた山村に一軒家を買ったとのこと。パーマカルチャーの類に興味があるというので、福岡正信のことを教えたら喜んでくれた。

 宗教や哲学にも深い関心があるようで、東洋の哲学や宗教の実践、そしてイスラム教について話をして盛り上がった。ちょうど私はスーフィーのリトリートを終えたばかりで、ここからその聖地であるコンヤに行こうと思っていると伝えたら、まさにそのコンヤに祀られているスーフィーの聖者ルーミーのことを描いたForty Rules of Loveという小説を教えてくれた。

 話題はキリスト教に移り、彼女がグルジアを旅していて訪ねた教会の話をしたときに、私もカトリックよりは正教会の雰囲気の方がしっくりくるというようなことを言ったら、トルコの南東部のマルディンにシリア正教会修道院があり、最も古いキリスト教の形が今も保たれている、ということを教えてくれたのだ。また、その周辺には日本ではあまり知られていないヤズィーディー教徒のコミュニティもあるという。東方の秘教的雰囲気に惹かれる私は、それだけでマルディンに行ってみたいという気持ちが俄然湧いてきたのだった。

 

 スーフィーの聖地コンヤから夜行バスで14時間、夜の21時に出発したバスがマルディンに着いたのは、もう昼時に差し掛かろうという11時近くだった。南東部アナトリアの乾燥したステップ平原を走るバスは、いくつか軍の検問をくぐった。次第に道路には傾斜がかかり、迫り出した台地の岩壁を縫うように標高を上げていった。砂岩でできた城塞のような山が前方に姿を現し、近づくにつれて斜面に作られた人々の集落の姿が認められるようになった。人家の色もみな同じように乾いた土地の色をしている。

 

 マルディンは新市街と旧市街の二つの区画に分かれる。歴史的な史跡が残る旧市街には、想像したのとは打って変わってたくさんのトルコ人観光客が来ていた。私が到着したのはイスラムの犠牲祭の真っ只中であり、休日だったということもあったのだろうけれども、鄙びた田舎町を予想していた私の期待は裏切られた。それでもやはり外国人観光客はほとんど見られず、チェックインしたホテルのスタッフも、親切ではあったけれどもほとんど英語が喋れなかった。

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 荷物を置いてシャワーを浴びた私は、バスで過ごした一晩の疲れも意に介さず街へと繰り出していった。外はとにかく暑い。熱帯特有のじめじめした気持ち悪さは感じないけれども、太陽の熱線がじわじわと体力を奪っていくのを感じた。私はあてもなくぶらつきながら、マドラサと呼ばれるイスラムの古い神学校の旧跡などを訪ねていった。

 マドラサは学校と祈りの場であるモスクが併設されているような場所で、門をくぐると大抵、石造の建物に囲まれた中庭に出る。こじんまりした中庭には慎ましやかな清潔感が漂い、頭上から容赦なく差し込む日光も、白い芙蓉の花びらに触れれば柔らかい飛沫となって優しく降るように感じられた。中庭の西側には石樋が設けられ、山から流れる来る湧き水を渡して貯めるプールがあり、空間の清涼感を高めるのに一役買っている。

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 マドラサから外に出て再び市街を歩き回る。商店が並ぶ麓の通りを除けば丘の斜面はほとんどが人家で、その間を縫うように石畳の路地が走っている。いくつもの階段をぐんぐん登っていくと、時折家からは駄々をこねる子どもの声や、ラジオの音声が漂ってくる。山羊の糞の匂いがして、私はインドで暮らしていたヒマラヤ山中の村のことを思い出していた。ここの生活感にはどこかそれに似た、近代以前の素朴な雰囲気があった。基本的に観光地や都市ばかりを回っていた私は、その山羊の糞の匂いにとても心安らいだ。地元の人の「どこから来たの」と聞いてくる気安い感じにも、都市にはないリラックスした響きがある。

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f:id:apoptosis777:20190906175328j:image(マルディンはその建築の美しさでとよく知られている。この門などもアーチのところにレースのような細かい意匠が施されている。これらは12世紀から15世紀にかけてこの一帯を支配したアルトゥク朝の様式らしい。)

 

 ほとんど頂上というところまで来ると、軍事施設になっているため立ち入りできない古い城塞のすぐ下に出た。木陰を見つけて涼んでいると、隣で煙草を吸っていた初老の男性がわざわざ家の中から冷たい水を汲んできてくれた。厳しい環境で暮らしている人々は、人の苦労をよく思い遣ってくれる。

 一言感謝の言葉を述べ、再び道を歩き始める。ゆるやかな坂を越えると、道の脇を少し降ったところに墓地が見えた。人家はもう途絶えていて、そこからは広大なメソポタミア平原と、それを見下ろすマルディンの街が一望できた。

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 統計的なことはわからないけれども、どんな国にいっても墓場は景勝地に作られていることが多い気がする。もしそれが死者に素晴らしい景観とそこに吹く風を楽しんでほしいという理由によるのであれば、なかなか粋なことではないかと思う。どんなに地を這いつくばるような艱難を舐めて生きたとしても、後生くらいは穏やかで清潔な場所に眠っていたいものだ。墓場はよく肝試しの舞台になったりして恐れられることが多いけれども、私は昔よく街中で一人になりたいときは墓地に行っていた。

 

 限りなく広がっていくように見える地平線は、霞の中に消えていく。

 肥沃な三日月地帯と呼ばれたメソポタミア文明発祥の地、この一面乾燥したほとんど砂漠のような土地には1万年前森が茂っていたという。その多くが人間による伐採で失われてしまった。文明の勃興は自然の破壊と裏腹である。紀元前3千年紀にメソポタミアで書かれたギルガメシュ叙事詩には、巨大な神殿を残すことによって自らの名を後世に留めようと考えた王ギルガメシュが、森の番人フンババと戦った末それを打ち殺し、建材を作るのに必要な木を得るため盟友エンキドゥと共に森を平らげていく描写が残されている。エデンの園を追い出された人類は額に汗をして働かなければ糧を得られなくなってしまった。そしてその汗を乾かし、疲れた体を休めるための木陰も、自ら失ってしまったのだ。

 辺りの墓石を見回すと、何かの紋様が刻まれており、その溝に合わせて緑の塗料が塗ってあった。私にはそれが、この土色の土地で緑に憧れる人々の気持ちの表れに見えた。真偽は定かではないけれども。

 

 再び丘を降った私は、今回マルディンに来た理由の一つであるシリア正教の教会を訪ねてみることにした。

 その教会の名はクルクラール・キリセッシ。トルコ語で40人教会という意味だ。またモル・ベーナムという別名がある。ベーナムとは4世紀に当時ササン朝ペルシアの傘下にあったニネヴェ国の王子で、妹の癩病キリスト教徒の隠者に癒してもらったことから妹と40人の従者と共にキリスト教に改宗するも、それを理由に父親に皆殺しにされてしまう。この教会はその殉教者たちに因んで建てられたもので、それが名前の由来になっているようだ。

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 写真を見てもわかるように、装飾らしい装飾はほとんど見られない、とても簡素な作りである。中に入ってみると、外の暑さとは打って変わって冷房が効いているかのような涼しさだった。内部の撮影は禁じられていたので残念ながら私から見せられる写真はないけれども、気になる人はこちらのサイトhttps://offbeattravel.blog/mor-behnam-kirklar-kilisesi.htmlに紹介されているのでご覧いただきたい。

 シリア正教の教会には、他の正教会と同じようにカトリックの教会に見られるような彫像はなく、その代わりにキリストやマリア、聖人たちを描いたイコン画が掲げられている。この40人教会にもいくつかの宗教画があったけれども、マリアとキリストといったすぐに判別できるものの他には説明書きなどもなく、何が描かれているかわからなかった。誰か事情を知っていて英語がわかりそうな人はいないかと辺りを見渡すと学生のような若い男の子がいたので話しかけてみた。たどたどしい英語ではあったが、いくつもの質問にも嫌な顔をせず答えてくれた。といっても、ほとんどは彼にもわからないようだったけれども。

 

 例えばこれは、先ほどのサイトから写真を拝借したものだけれども、石に打たれ殺されようとしている殉教者の絵だという。

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 キリスト教には、イエス自身が十字架にかけられたことに始まって、受難の物語がとても多く、他の宗教に比べてもより強調されて語られるように思われる。

 殉教とは、自らの信仰を堅持したがために異教徒などから迫害を受け死に至らしめられることである。キリスト教は4世紀にミラノ勅令でローマ皇帝から公認されるまでは常に迫害の憂き目にあい、多くの殉教者の血によってその後の隆盛が贖(あがな)われた。私が教会に行くといつも感ずる一種の悲壮感は、この宗教そのものがそういう歴史に因って育ったことに因るのだろう。悲しみが大きければ大きいほど、救いの光が届く深度もより深まっていく、ということだろうか。

 

 仏教では、私たちが経験する出来事は全て、過去に自ら作り出した業によって起こると言われている。因果応報の考え方である。しかしキリスト教では、この世の出来事は全て、一枚の葉が木から落ちることですら、神の意志によって起こると信じられている。であるからには、私たちが不条理に感じる苦難や残酷な現実も、実は神の意志のままに生じているのである。ではなぜ神はこの世に悲しみや苦しみをもたらしたのだろうか。

 悲しみや苦しみは、人に与えられる試練であるという説明もある。その苦難を乗り越えてこそ、霊的な成長を遂げることができるのだという。しかしこの世には、その悲しみや苦しみに打ちひしがれ、立ち直る意力を無くしてしまう人の方がもっと多い気がする。試練を乗り越え、強くなって立ち直ったという美談は巷に溢れているけれども、私はそういうものにはあまり共感ができない。

 あるいは、喪失によって己を空しくし、信仰に目覚めさせるためだろうか。世俗的な満足を得ている人に神を想えというのは難しい話である。財産や家族、何か大切なものを失うことによって世を儚み信仰の道に入るというのはよくある話だ。

 でもそういうことであれば、神は初めから信心深い人々でこの世を満たせばよかったのだ。なぜ敢えて不信心者や狂信者、あるいは違う宗教を信じるものを創り、互いに争わせたりするのだろうか。

    人は弱いものである。旧約聖書のヨブのように、「主は与え、また奪う。その名は誉むべきかな。」と言える人など、どれほどいるだろうか。

 

 これはいつか機会があれば、キリスト教かあるいはイスラム教のお坊さんに尋ねてみたい疑問である。もし上記のような疑問について納得できるような解説をしている本をご存知の方がいればご紹介願いたい。

 

 

 教会を出た私は、夕焼けが美しく見れるという噂を聞いて、丘を下った街外れにあるマドラサに向かった。マドラサでは、白いウェディングドレスで美しく着飾ったトルコ人女性とタキシード姿の男性が友人たちと写真撮影に興じていた。

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 夕焼け時ほど、一人旅の孤独を感じさせる時間はない。

   それがなぜだかはっきりとはわからないけれど、優しい黄昏の光を見ていると、自分の感情が堅い枠にはめられている心から溶け出して、溢れていってしまうような感じがする。だからそれを受け止めてくれる器の存在を期待してしまうのかもしれない。

 

 夕陽が沈んだあとその場を立ち去るときはいつも、そういった自分の弱さと決別するような気持ちにさせられる。