透明になりたい旅鴉

ギター片手に国内外を旅する哲学徒の旅行記・雑記

無常を響かす童声

熊本県球磨郡五木村は、江戸期まで城下町として栄えた人吉市から、川辺川を伝って30キロ程北上したところにある山間の村里である。

ここには壇之浦の戦いに敗れた平家の残党が落ち延びたという、いわゆる落人伝説が残っている。今から八三五年も昔の話ではあるが、その歴史の細流は、一時栄華を極めた一族衰亡の消息を、昭和の世に綿々と伝えていた。

 

おどま盆ぎり盆ぎり、と聞けば、盆からさきゃおらんど、と二の句が継げるという年配の方は多い。戦中生まれの筆者の父は、ひどい音痴であるのにこの歌に限っては節回しをよく心得ていた。

誰の歌唱で覚えているのかと問うても「忘れた」の一言だが、それはかえってこの民謡がいかに人口に膾炙したかを示しているともとれる。歌の名を「五木の子守歌」という。

 

地下人から殿上人、一武門の嫡子から太政大臣にまで昇りつめ、「平家にあらずんば人にあらず」と伝えられるほど一門の権勢を高めた平清盛

日宋貿易を盛んにし、金や木材の輸出によって多くの宋銭を日本にもたらした。これにより貨幣経済の礎を築くなど、国の歴史に及ぼした影響は大きい。

しかしそんな清盛が熱病で死んで5年の後、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ平家は滅亡した。生き残りは四国や九州などに離散し、名も富貴も捨て深山に隠れ住むようになった。その場所の一つが五木村である。

 

筆者は少し変わった経緯で「五木の子守歌」を知った。

ボサノヴァ黎明期のブラジルで活躍したギターマエストロ、バーデン・パウエルがカバーした音源を、たまたまyoutubeで聞いたのだ。ラテンアメリカというよりどことなく地中海風のフレーズに挟まれた日本調の旋律には、胸を締め付ける哀切な響きがあった。

原曲を聞いてみたくなって調べると、女の恨みつらみを歌わせてはこの人の右に出るものはいないというフォークシンガー、山崎ハコの演奏が見つかった。


山崎ハコ-五木の子守唄 (Yamazaki Hako-Itsuki no Komoriuta) with lyrics

 

さてこの「五木の子守唄」は、「子守唄」と名付けられているものの、その実は子をあやすための歌ではなく、子守りをする女童たちが自らを慰めるための「守子唄」だったという。歌詞に少し触れてみよう。

 

「おどま勧進勧進、あん人たちゃよか衆、よか衆よか帯、よか着物」の「勧進」とは、諸国を行脚する勧進聖が単なる乞食、物乞いの意味に変化し、転じて下層民を指すようになったものだ。

「おどま」は一人称であるから、これを歌う守子のこと。「わたしは乞食(のようなもの)よ」と言っているのである。では「よか衆」とは誰か。

 

平家の落人が住み着いたという報を聞き、鎌倉の幕府は監視のため東国の武士を五木村に派遣した。その後これら源氏方武士の子孫は地主階級を形成し、小作人に田畑や農具を貸し出して農園を経営するという構図が出来上がった。

つまり「よか衆」は、「よか帯、よか着物」を身に着けていたこの地主たちを表している。対して「勧進」と自称しているのは、小作だけでは食い扶持が稼げない親に、幼くも子守奉公に出された童たちだったのである。

 

階級差別の激しかった封建時代の話だ。家族から独り離れ他所の家で他人の子をあやす、さぞかし心細い思いがしたことだろう。

「おどんがうっ死んだちゅうて、誰が泣いてくりゅか、裏の松山、蝉が鳴く」。

うら若い女子(おなご)が歌うには、あまりに寂しい歌詞だが、

今の商業音楽とは違って、人に聞かせようという衒い無く歌い継がれた民謡であるから、それが彼女たちの実感だったのだろう。

しかしその感情は、怨みと呼ぶにはまだあどけなく余計に憐憫を誘う。山崎ハコの歌唱はその雰囲気をよく伝えているように思う。

 

筆者の調べの限りでは、この小作人たちが平家の子孫であったことを示す資料は見つからなかった。しかし敗者として身をやつし暮らしていかざるを得なかったその後裔が、勝者の側から差別を受けたことは想像に難くない。

働き口の乏しい山村であれば、小作人になることが唯一の生きる道ということもあったろう。そう考えれば、この歌を歌った守子たちは、何代も前の先祖が残した一門の業を、そうとは知らず背負っていたのかもしれない。

諸行無常の声を響かせるのは、祇園精舎の鐘だけではないという話。