透明になりたい旅鴉

ギター片手に国内外を旅する哲学徒の旅行記・雑記

聖母マリアの家を訪ねて

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(イスタンブールのコーラ修道院で撮った聖母子像。赤子のイエスを抱えるマリア)

 

 ヴァージン・メアリー。処女のまま救い主イエスを身籠り、この世に産み落とした聖母。十字架に磔にされたイエスは、弟子のヨハネに彼女の行く末を託した。それからのマリアの生涯について公式に伝える記録は残されていないが、伝説によるとイェルサレムでのユダヤ教徒からの迫害を逃れたヨハネはマリアを伴ってアジアのエフェソス(日本語訳聖書ではエペソと称される)に辿りつき、彼女を静かな山の上に住まわせ、甲斐甲斐しく世話をしたという。マリアはそこで晩年を過ごし、生涯を閉じたと伝えられている。 

 その聖母の家は、ここエフェソスで訪ねることができる。観光客や巡礼客にとってもお馴染みのスポットで、たくさんの人々がそこを訪れる。しかしその場所が発見されたのは、そう昔のことではない。その物語は、19世紀初頭のドイツに遡る。とても興味深い話なので、少し長くなるけれども紹介させていただきたい。

 

 1774年、アンナ・カタリナ・エンメリックは現在の北ドイツにあたるウェストファーレン地方の貧しい農村に、9人の兄弟姉妹の内5番目の子として生まれた。家には子供達に教育を受けさせるような経済的なゆとりはなく、彼女も幼い頃から農家を手伝ったり、裁縫工場での奉公をして家計を助けていた。

 

 カタリナ・エンメリックには他の子供たちとは一風変わったところがあった。羊飼いの姿をした天使が羊の世話を手伝ってくれたり、聖母マリアが幼いイエスを連れて現れ自分と遊ばせてくれた、といったようなことを口にするようになったのである。彼女が病気になったときは、その幼いイエスが薬になる草を野草の中から教えてくれたという。彼女がそうやって用いていた薬草の中には、当時はまだ効能の知られていないものもあった。

 そういった神秘体験の数々に伴って、彼女の信仰は敬虔さを増していき、修道女となってその一身を神に捧げることを望むようになった。修道女となる持参金を捻出するほどの余裕がなかった彼女は、修道院がオルガン奏者を募集していることを知って、オルガンを学ぶためその奏者を育てる一家に世話になることになった。しかしその家も極貧のうちに暮らしていたため、彼女は無償で召使いとなることを選び、家事をこなしていた。結局、オルガンを学ぶ時間は得られなかった。

 28歳になったカタリナ・エンメリックは、自身がオルガン奏者となることは叶わなかったものの、オルガン奏者として修道院入りすることが決定した家の娘に伴って修道女となることを許された。しかしその後も彼女は、健康状態の悪化と、数々の神秘体験や、彼女自身の宗教的熱狂が引き起こす他の修道女との間の軋轢に苦しむことになった。

 

 彼女はそのとき、すでに聖痕を得ていた。彼女の言によれば、修道院に入る4年前、イエス・キリストが花の冠と荊の冠を携え彼女の前に現れ、どちらが欲しいかと彼女に尋ねた。荊を選んだ彼女の頭にその冠を載せたキリストはどこかに消えてしまい、それから額とこめかみに激痛が走るようになった。翌日には荊の冠の傷跡のようなものが現れ、それ以降時に流血を伴い、昼夜を問わず痛むようになったという。彼女は頭に被り物をして、人に知られぬようそれを隠していた。

 

 国王の命令で修道院が閉鎖になり行き場を失った彼女は、最終的にはある司祭の世話で貧しい未亡人の家に居候させてもらうことになった。

 彼女の健康状態は、ベッドで寝たきりの生活を送らなければならないほど悪化していった。彼女がさらなる聖痕を受けたのは、その最中である。両手、両足、右脇腹(いずれもイエスが十字架に磔にされた時に傷を負った箇所である)に加え、彼女の胸には十字の形をした傷跡が現れた。これはついに衆目を集めることとなり、彼女のもとには神学者や医師を始め、奇跡を目の当たりにし、その恵みに肖ろうという信者など、多くの人が訪ねるようになった。数年に渡って炎症も化膿も起こすことなく、まるで新しくつけられたかのような状態を保っている傷口を見た医師たちは、それが超自然的な現象であると結論づけざるを得なかったという。

 そうやって彼女のもとを訪ねた人々の中に、当時すでにロマン主義の詩人として名を馳せていたクレメンス・ブレンターノがいた。1819年から1824年に渡りブレンターノはカタリナ・エンメリックのもとに通い、彼女の口から語られるヴィジョンの数々に耳を傾け、それを記録していった。

 聖母マリアの家が発見されるに至ったきっかけは、それらのヴィジョンの中に含まれていた。彼女は、ヨハネが彼女のために拵えた山上の家について、その姿形から周囲の環境まで細部に渡って語り、ブレンターノに聞かせていたのである。

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アンナ・カタリナ・エンメリック

 以下その記録から当該部分を一部訳して引用する。

  マリアが住んでいたのはエフェソスの街中ではなく、郊外であった。同じ地域には彼女の親しい友人たちも住んでいた。その住まいはエルサレムからエフェソスに向かう道の左手、街からはおよそ3時間半ぐらいの道のりの丘の上にあった。丘から急な斜面を降ったところにあるエフェソスは、南東から近づいていくとまるで目の前にあるかのように高台の上に現れるが、近づいていくにつれてその場所を変えていくように見える。大きな街道が街に通じており、樹下の地面は黄色い果実に覆われている。狭い小道が南に向かって丘へと通じており、その頂上付近は平らでない台地となっている。円周をぐるっと回るのにはおよそ半時間ほどかかり、丘全体と同じように、草木によって深く覆われている。そこには何人かのユダヤ人たちが移住してきていた。人里離れたとても寂しい土地ではあるが、斜面は肥沃な土を蓄え、いくつかの岩窟があり、砂地に囲まれた空気は乾燥していて清らかだ。野生的な場所ではあるけれども、荒涼としているわけではない。周囲には滑らかな幹をしたピラミッド形の木々が、地面に大きな影を落としている。

 聖母を連れてくる以前に、ヨハネはすでに彼女のために家を用意していた。イエスの教えを奉ずるいくつかの家族と、聖女たちが既に移住してきており、そのうちの幾人かは木を使って簡単な家のようなものを作り、地下の洞穴や岩窟で暮らしていた。今にも崩れそうな小屋やテントで暮らすものもいた。彼らはみな迫害による暴力を逃れてここにたどり着いたのだった。 自然によって与えられたものだけを用いた簡素な暮らしは、隠者たちの住まう廬のそれによく似ている。彼らの住まいは規則によって、互いにそれぞれ歩いて15分ぐらいの距離に建てられていた。居住区全体は、ばらばらになった村のようだった。

 マリアの家だけは唯一石で造られており、その背後を少し進めば、立ち並ぶ木々や数々の丘越しにエフェソスと、たくさんの島が浮かぶ海を望む頂上に至る。そこはエフェソスよりも海に近く、海岸からはおそらく数時間もあればたどり着けるだろう。その地域は人気がなく、訪ねる者もほとんどいないようだった。近くには城があり王が住んでいるが、既に退位させられた後のようだ。ヨハネはしばしば彼を訪ね、ついには彼を改宗させた。その城はのちに司教の聖座となった。聖母の住まいとエフェソスの間には、くねくねと蛇行する小川が流れている。

 (アンナ・カタリナ・エンメリック『聖処女マリアの生涯』より拙訳)

 

 カタリナ・エンメリックは、マリアの家の外見についても詳細に語っていた。長方形の石造の家。暖炉がついており、屋根は丸屋根で、後壁も丸みを帯びている。丸屋根になっている部屋の隣にはマリアの寝室があり、そこに湧き水が流れ入るようにしてある。

 彼女はさらに、マリアが64歳で亡くなり、近くの洞窟に埋葬されたが、すぐ後に誰かが棺の中を確認すると、遺体はどこかに消えていた、ということまで述べた。その後マリアの家は教会に作り変えられたという。

 カタリナ・エンメリックもブレンターノも、その生涯でエフェソスを訪ねたことはなかったにも関わらず、本が出版されてからしばらくした後、実際に使節団がその記述に基づいてエフェソス近辺を探索したところ、それにぴったり一致する廃墟が見つかった。調査によると、その廃墟は紀元4世紀に作られた部分と、紀元1世紀に作られた部分とでなっていることがわかった。ローマ教皇の訪問などを受け名聞が高まった建物は1940年代に修復され、今では小さな教会となっている。

 

 エフェソス周辺の遺跡を回るツアーの一環としてその家を訪ねた私は、正直言ってあまり浮かない気分でいた。というのも、その前にツアーのプログラムとして、全く興味のない革製のファッショングッズを作る会社のプレゼンテーションに参加させられていたからである。ツアーを契約した時点では、エフェソス近辺の遺跡を回るということだけしか知らされていなかったので、それはあまり嬉しくないサプライズだった。物価の安いトルコにしては、結構いい値段を払ったので、ぼったくられたような気分になってしまった。

 冷房がガンガン効いた部屋で、どうみても金持ちには見えない旅行者であるわずか四人の私たちに向かってポーズを決めていくモデルたち。音楽と照明の派手さがまたなんとも状況にそぐわない感じがして、なんだかいたたまれなかった。

 

 観光地を回っていると、もちろん仕方ないことだというのはわかっているのだが、観光客の多さと、行楽気分の彼らの振る舞いに、しばしばげんなりしてしまうことがある。なぜ古代遺跡にまで来て全く関係のない馬鹿げたポーズの写真を撮ろうというのか。見ていると、歴史や遺産そのものに興味があるというよりは、ただ観光地として有名でコースに入っているからとりあえず訪ねている、という人が大多数のように思えてきてしまう。

 もちろんその収入をアテにしている政府は、どんな遺産であっても観光客を惹きつける価値があればそれをプロモートするのが自然な成り行きだろうし、そのお金によって修繕や保存が可能となり、私たちのような遠い時代に暮らしているものでも過去の遺産に触れることができるのだから、頭ごなしに批判できるものではないけれども、ただの見世物となってしまい、人々の気持ちも敬意も通わなくなった石くれや神々の像を見ていると、なんだか複雑な気持ちになってしまう。人間の自分が石の気持ちを忖度するなんておかしな話かもしれないけれども、こうやって心無い人々の好奇の視線に無闇に晒されるぐらいであったら、瓦礫の中に埋もれて静かに眠っていたほうがマシだったかもしれない。

 

 そんなことをあれこれと考えながら、私は車の中で聖母マリアの家に続く山道を上っていた。高度があがるにつれて草木の緑は濃さを増し、山の空気は水々しく、炎天下の中乾ききっていた私の身心を潤してくれた。

 

 ガイドの人の話によれば、ヨハネは街からこの山まで、マリアを世話するために毎日のように通っていたという。馬を使わなかったのは、あまり目立つとエフェソスに暮らす異教徒たちに居処が知られ、迫害を受ける恐れがあったからだ。

 当時のエフェソスではアルテミスを初めとしたギリシャアナトリアの神々を崇拝する多神教(いわゆるペイガニズムである)が支配的であり、姿形を持たない絶対の唯一神について説くユダヤ教徒キリスト教徒は少数派で、大多数の人々の反感を買っていた。それは信仰だけに関わる問題ではない。原則として偶像崇拝を禁じていた彼らは、アルテミスといった神々の像を作ることで生計を立てていた地元の石工などから反発を受けていた(新約聖書使徒行伝の19.24を参照されたし)。

 歩いたら2〜3時間はかかるような道のりである。今でも敬虔な巡礼客などは、そのヨハネの足跡を辿るようにエフェソスの街から歩いてこの山を登るという。

 

 駐車場を過ぎて園内に入ると、道の脇にはカフェや土産物屋が並ぶ。他の観光地となんら変わることのないありふれた光景だ。しかし少し歩みを進め、マリアの家に近づいていくと、雰囲気は巡礼地のそれに変わっていった。鮮やかな緑色をした梢が風に揺れ、敷石の上には木漏れ日がチラチラと差し、夏盛りのセミの鳴き声が観光客の雑踏をかき消して、一種静謐な趣をその空間に与えていた。

 割石積みで作られた簡素な建物は上から見るとくの字型をしていて、扁平な丸屋根がつけられている。アーチ型の入り口をくぐって中に入ると、中は洞窟を思わせる造りになっていて、外壁の土色に比べるとどことなく全体的に黒ずんでいて、暗い雰囲気を醸し出していた。

f:id:apoptosis777:20190821210252j:imageマリアの家外観

 

 参拝客がお供えできるように用意された蝋燭を一本手に取り、奥の部屋の中央に配されたマリア像に近づく。像の前では、化粧の濃い白人のマダムが跪いて何かを一生懸命祈り、マリアの足に口づけをしていた。私はそれをただぼーっと見つめていた。

 彼女が去ったあと何をしたのか、実はあまり覚えていない。普通ならマリアの像の前に立ち、祈りでもしたのだろうけれども、その時の私はもしかしたらそういう気分ではなかったのかもしれない。

 

 神の子とはいえ、彼女にとっては独り子であったイエスを失い、一人見知らぬ土地の山の上で暮らす母の気持ちを少し想像してみた。その暮らしは、祈りに満ちた平和なものだったのか、それとも侘しい、亡き子を想う一介の母のそれであったのか。私たちにそれを知る術はないけれども、イエス自身や、彼の弟子たちの受難の歴史に漂う悲壮な雰囲気が、その家にも漂っているように感じられた。でもそれは、耳をすませば嘆き声が聞こえてくるような類の悲しみではなく、長い時間をかけて堆積した沈黙の層の下で眠る、安らかな顔をした悲しみである。

 かつて悲劇が起こった土地には大抵、その悲劇の残り香が香るものである。そしてそこを訪ねる人々はその香りによって、まるでそれが自分に起こった出来事でもあるかのように、漠然とした喪失感を覚える。しかしその喪失感が持つがらんどうの響きは、何かを得ることよりも、失うことの方にこそ人生の哲理があるのだ、ということを伝えているように私には聞こえる。悲しみの真っ只中で人生を呪う慷慨の歌でなく、時が経ても癒えない遣る瀬無さを慰める挽歌。  

 このマリアの家にも、そんな沈黙の響きが漂っているようだった。

 

 家を出て右手に坂を少し下ると、マリア自身がそこから水を飲んでいたと言われている湧き水があった。多くの人がマリアが口にした恵みにあやかろうと、容器を持参して渾々と湧き出るその水を汲んでいた。少し先には壁一面に、ちょうど日本の神社のおみくじのように、たくさんの紙切れが結びつけられていた。どうやら、願いを書いた紙をそこに結び、落ちることなく留まっていれば、願いが叶うと言われているらしい。

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 中には紙を持っていなかったのか、ビニール袋の切れ端に願いを書いて結んでいる人たちもいる。地面に目をやると、風に飛ばされてしまったのか、落ちてしまった願い事もたくさんあった。そんな簡単なことで叶わなくなってしまうなんて馬鹿な、と思いながらも、私は持っていた手帳の一部を破り願い事を書いて、紙に傷がつかぬよう気をつけながら、連なっている紙の一端に力強く、しっかりと結びつけた。

 こういうまじないごとをするたびに、こんなことをしたって甲斐がないという懐疑的な自分と裏腹に、切実な思いを真剣に託している二人の自分がいることを発見する。そして顔を見上げると、そこにはたくさんの人が同じように、ひとひらの紙きれに願いを託していた。

 風に吹かれて地面に落ちてしまった願い事について、そんな簡単なことで、と私は書いたけれども、思えば私たちの未来だって、ちょっとした出来事一つでがらっと全てが変わってしまったりするのだ。そう考えると、人間の運命も、紙切れと同じようにか弱いものではないか。

 そしてそんなたった一枚の紙切れに願いを叶える力があると信じる私たちは、滑稽といえば滑稽である。でもそんなところに、動物の中でも変わり種のこの人間という生き物のいじらしさがあり、そのいじらしさこそが、私には何か神聖なもののように感じられたのだった。