透明になりたい旅鴉

ギター片手に国内外を旅する哲学徒の旅行記・雑記

旅と自由

家を持たず、旅暮らしを始めて4年の月日が流れた。

禅には「行雲流水」という言葉がある。

文字通り、雲のように行き、水のように流れる、という意味だ。

何ものにも囚われず、淀みなく、滞りなく生きるということ。

 

旅人は、自由人だと思われがちだ。

確かに僕たちは、朝夕の満員電車や、せっかくの休日を混雑した行楽地で過ごさなければならない憂き目を免れている。

行きたいところがあれば、どこへだって行ける。

お金があれば航空券を買って、極端な僻地を除けば、世界中どこへだって二日も三日もあれば飛んで行ける。

最悪お金がなくても、ヒッチハイクをすればいい。中には好んで国から国を自転車で越えて旅をしたり、歩いていく人さえある。

 

それでも、それは相対的な自由に過ぎない。

ある場所に定住して、決まった仕事を毎日こなし、家族を養い、財産を守る。

そういった一般化された生活の形式と比べてみて、

空間の移動や、時間のやりくりの裁量が、自分に委ねられている部分が大きいというだけだ。

 

旅をするには、お金が必要だ。

もちろん、全くの無一文で、お坊さんのように人の厚意に与って生きていくことも、不可能ではないと思う。例えばインドだったら、寺院やアシュラム(ヨーガを学ぶ道場のような場所)に滞在すれば、お金がなくとも寝床と食事には困らないだろう。

またCouchsurfingのように、自宅の空いているスペース(Couchとはソファーのことだ)を、寝床として無料で旅人に提供するネットワークや、

WorkawayやWWOOFといった、労働力の対価として寝床や食事が得られるようなシステムが段々と広まってきて、少ない予算でも長期旅行をすることは容易くなった。

それでもやはり、食うにも困るほどの経済状況で旅を続けるのは、長期的にみれば現実的ではない。

つまり旅人がいくら自由人のように見えても、当然のようだけれども、ある程度お金に依存していることには変わりない。

 

また、土地々々には宗教をはじめその文化に由来するルールや慣習といったものがあり、

そういったものを無下にするような人は、結局は爪弾きにされてしまう。

これは人間社会に限ったことではない。アフリカのサバンナにいる動物達だって、水飲み場のどこが自分達に割り当てられているのか、といったことを気にしている。

他者のテリトリーを物理的にしろ、精神的にしろ侵すものは、歓迎されないのがこの世の常である。

いくら旅人といっても、こういった条件を守って初めて、他所の土地の人に受け入れられ、暮らしていくことができる。

旅の恥はかき捨てといって、身勝手な振る舞いをしていては、結局はそのツケをいずれどこかで払わなければならないハメになる。

 

結論を言えば、旅人だからといって、そういった諸条件からは全く自由ではないのである。

こんなことを言うと、もしかしたら怒る人もいるかもしれないが、僕はこの生活を自由だと思ったことは一度もない。(例外を述べるならば、オーストラリアのタスマニア島で、ほかに人気のない自然の中ひたすらキャンプをして暮らした数ヶ月)

旅をしながらお金を稼ぐにはどうすればいいのか。

僕の場合は、どこのストリートで何時に演奏すればよいのか、といったようなことや、

次にどこに行けば、自分が一番学びたいものを学ぶことができるのか、会いたい人に会えるのか、

そんなことを常に考えて、無数にある選択肢の中から、一つを選び抜かなければならない。この作業は、物理的にも、精神的にも、なかなかの労力を要する。時には何も決められず、徒らに考え過ごし、くたびれてしまうことだってある。

 

その一方で、定住し、毎日仕事をはじめと決まったルーティンをこなす暮らしは、退屈に感じることもあるかもしれないが、定まった時間の中で、集中して物事にあたることができる。多くの時間は仕事にとられてしまうかもしれないが、毎日決まった時間に1時間勉強する、なんていう習慣を保つのは、こちらのほうがかえって楽だったりする。

移動を常とする暮らしは、行き先の判断から寝床探し、何をどこで食べるか、といったような、定住をしているときには必要のない心配に、想像以上にエネルギーを費すものだ。

 

まあ、こんな話は無い物ねだりのようなものなので、これ以上追求はしないけれども。どんな物事にも色々な側面があって、実際にやってみないとわからないことがあると思うので、少し説明させていただいた。

 

さて、話を戻そう。

 

もっと根本的な話になってしまうけれども、

僕は、この世に全く孤立して生きているわけではない。

僕の幸せを願い、それを自分のもののように感じている両親や、両親ほどでなくても、喜びや悲しみを共有する友人たち。

そういう人々のためにも、幸せな人生を歩まなければならない責任を帯びて生きているのだと、僕は思っている。自分の人生を呪って死んでいかなければならないような生き方は、何としてでも避けなければならない。

そして、この責任を果たすことは、僕の目からすれば、とても難しい。誰もがそれに則れば幸せになれるマニュアルなんていうものは、ないのだから。

 

人は、自由意志を持っている(思い込みという可能性は捨てきれないけれども)。

そういう意味では、旅人であるにしろないにしろ、僕たちはみな自由である。皆それぞれに様々な条件があるとはいえ、自分で選択して今この生活を生きているのだ。

しかしサルトルはそれを、「人間は自由の刑に処せられている」と表現した。そういう意味では、自由とはとても重たいものである。僕は時折、そのあまりの重圧に、押しつぶされそうになってしまうことさえある。

 

 

でも、「自由」って、ほんとうに、そんなに重たく、抱えるのに難儀するお荷物のようなものなのだろうか。

僕は高校生のときにそのサルトルの言葉に出会ってから、ずっとこの疑問を抱えて生きてきた。

そこには何か矛盾があるような気がする。

「自由」という言葉には、どこか軽やかな、大空を飛翔する鳥のような、鷹揚とした響きがある。僕はその「自由」が、一体どんなものなのか、知りたいと思っている。

旅をしていようが、していまいが、静かな海辺でゆったりと夕凪を眺めていても、牢屋に繋がれていても変わらないような「自由」。そんな自由が得たいと思って、僕はこの人生を生きている。

 

 

 

僕のような長期旅行者は、よほどの収入かあるいは財産がある人でない限り、豪華なホテルに泊まって好きなものをいくらでも食べ、毎度の移動にプライベートタクシーを使ったりすることはできない。

地元の人たちが行くような、安価な大衆食堂のような場所を探し、

何も読めない外国語のメニューから、なんとか探り探り注文をして、結局届いた食べ物が全く口に合わなかったり、

予約したバスが故障したからと言われ、いきなり違う車両に押し込まれ、席が埋まっていて仕方なく床の上で寝る、なんてことも珍しくはない。

不本意でも、それを受け入れる以外に選択の余地がない状況は、旅をしていればしばしば出くわすものだ。

そんな時に、不満を抱いて、いつまでも苦い気持ちでいるのか、

あるいはこれはこれで仕方がないことだ、と諦め(明らめ)て、そんな状況を笑い飛ばしてしまうか。

 

一つ、具体的なことを言うのなら、

この後者の態度に、その「自由」に至るための鍵が隠されているように思われる。

 

それは単に受動的に、消極的になって、「こんなもんでいいや」と、どこか納得できないまま人生を妥協する態度とは違うのだと思う。「明らめる」にはもっと透き通った、清々しさがあるはずだ。

「行雲流水」のように生きるには、この「明らめ」が必要なのだと思う。

物事をほんとうに明(あき)らめる、というのは、どういうことなのか。

その答えを今生で得るのが僕の望みである。