透明になりたい旅鴉

ギター片手に国内外を旅する哲学徒の旅行記・雑記

イスタンブールでのあれやこれについて、徒然と。

ヨーロッパとアジアが出会うところ

イスタンブールのあれやこれについて、徒然とつづる。

 

 トルコに来てから、もう二ヶ月もの月日が経ってしまった。

    いつもの無精がたたって、せっかくブログをつけようと思って出国前、はりきってサイトまで用意したのに、ここまでほとんど何も書けていない。

 

 これではまずいということで、おぼろげな記憶を辿って、一種旅行記のようなものを綴ってみたいと思う。ところどころ脈絡がなかったり分裂的だったりするけれども、徒然旅行記ということで、お許しいただきたい。

 

 なぜだかは知らないけれども、私の旅にはドラマティックな出来事はほとんど起こらない。旅が普通の生活のようになってしまって、日常も非日常もよくわからない。全てが日常のように感じ、新しいものに感動するということも、はっきり言って、ほとんどない。

    なんてつまらない旅人なんだと思う人もあるかもしれないが、それが現実なのだから仕方がない。

 でも一応、日本から遠く離れた外国で、日本ではあまり耳にすることのない音楽を聞き、日本では出会えそうもない人や風景に出会っているのだから、読者の方にとっては、何か面白く感じられる事もあるかもしれない。

 散歩がてらぶらぶらと森を歩いていて、たまたま目についた苔をよくよく見てみると、予想外の面白い姿をしていたりする。感動がない、とわざわざ宣言するこんな私の徒然旅行記を読んでくださる人にも、多少なりともそんな発見があることを祈る。

 

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 「日出づる処」、と言えば飛鳥時代、当時中国に君臨していた隋の王朝に向けて送られた国書に、自国日本のことを示す枕詞として記された言葉だ。

 

 しかしその日本が属する「アジア」という地理的概念の語源そのものが、「日出づる処」を意味する、と言われていることを知る人は少ない。

 実際には、「アジア」という言葉の由来については、いくつかの説が考えられているようだが、その内の一つに、asuという「昇る」を表すセム語族の語根がある。そこからアジアは「日出づる処」を意味する、という説が生じた。

 古代ギリシャの人々は、自分たちよりも東に位置する土地をアジアと呼んでいた。今私が暮らしているアナトリア半島、ボスフォラス海峡によって隔てられた現在のトルコ共和国の東側の土地のことだ。

  「歴史の父」とも知られている古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、「アジア」という言葉を用いてこのアナトリア半島を含めたペルシア帝国の版図を表していた。

 歴史では小アジアと称されるアナトリア半島だが、古代ギリシャの時代からローマに渡って、アジアと言えば主にこの土地、特に西部の一部の地域のことを指していたようだ。今でこそアジアはユーラシア大陸の半分以上の地域から海を隔て日本やインドネシアといった諸々の島国までカバーする大きな概念になったけれども、その元々の起源はここトルコに見出すことができる。

 

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 イスタンブールは、トルコ共和国最大の都市である。首都はアンカラだが、文化や商業の中心地はイスタンブールであると言っていい。人口は1500万人を数え、なんと東京よりも多い。そしてこのイスタンブールは、前述したボスフォラス海峡によって、ヨーロッパ側(オクシデント)とアジア側(オリエント)に分かれる。ちなみにこのオクシデント(Occident)、オリエント(Orient)という呼称は、それぞれラテン語で「日が沈む処」、「日が昇る処」という意味である。

 ギリシャ人の植民都市「ビザンティウム」として歴史に現れてから、東ローマ帝国の首都「コンスタンティノープル」、オスマン帝国の治世下では「イスタンブール」と、この土地は二度その名前を変えてきた。「コンスタンティノープル」であった時はキリスト教東方正教会の根拠地として、「イスタンブール」となってからは、オスマン帝国の首都としてイスラーム文化の下繁栄を極めたこの土地は、様々な文化的混交と変遷を経て、まさにヨーロッパとアジアが出会う場所と呼ぶに相応しい。

 さて、大分大雑把だがこれでイスタンブールの概略はお分かりいただけたと思う。これ以上は専門家の筆に任せることとして、この記事では一旅行者として、私が見たイスタンブールについて記してみたいと思う。

 

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雲ひとつない空、

陽光を受けてきらめくマルマラ海を背景に、

焼き土色の屋根を戴く家屋が、緩やかな丘陵の上に連なっている。ところどころに見える青いドーム状のモスクの脇では、ミナレットが天を突くようにして立つ。

 


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 ミナレットからはアザーンという、コーランの章句を朗詠する祈りの声が聞こえてくる。今でこそ拡声器によって、車や都会の騒音にも負けないぐらいの大音量で鳴り響くようになったが、かつては実際に人間が塔に登って、街中に聞こえるよう高らかに吟じていたというのだから、その音響はどんなものであったのかと、機械以前の時代に想いを馳せる。日に5回聞こえるアザーンと、飛び交うおびただしい数のカモメの鳴き声が、この街のBGMだ。

 

 

 

 第一次世界大戦後、弱体化したオスマン帝国のカリフを退け、革命によって共和制国家を実現した建国の父、ケマル・アタテュルクの意志は、トルコを西洋的な近代国家とすることだった。それゆえに、世俗主義(Secularism)を国是として、政教分離を図った。それまでトルコ語を表現するのに用いられていたアラビア文字ラテン文字に置き換えられ、宗教学校は廃止、神秘主義教団の道場などは解散させられた。その政策は公共の場所でのイスラム式礼服の着用を禁じるなど、国民の生活にまで及んだ。

 


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(黒い帽子を被っている碧眼の男がケマル・アタテュルク。アタとは父、テュルクとはトルコのこと。文字通り彼はトルコの国父なのだ。トルコに来てからはいたるところで彼の絵や写真を目にする。)

 

 そういった背景もあって、他のイスラム系国家で見られるブルカ(女性が全身を黒ずくめの布で隠す衣装)は、イスタンブールではほとんど見ることがない。

 しかし今現在ヒジャブ(頭髪を隠すためのスカーフ)は割とポピュラーなようで、街を歩いていると、ざっと見て2割から3割くらいの女性が身につけている。とても上品でお洒落な着こなしをしている女性も多い。イスラームの伝統的衣装と近代的ファッションがうまい具合にマッチングしていて、自然で美しい。

 

 私が面白く感じたのは、そういったムスリムの女性も、公衆の面前で平気でタバコを吸っていることだ。インドでは、西洋化が進んでいるよっぽどの大都会や観光地でなければ、公共の場で女性がタバコを吸っている姿はほとんど見られない。ヒジャブについても、宗教性はもとより、ファッション感覚で身につけている人も多いという。そんなところからも、トルコの民衆がどれだけ近代的な価値観を受け入れてきたのかということが伺える。

 

 そういった現状が、急速にイスラム化を進めている現今の政権の方針とどれほど関係を持っているか私には量りかねるけれども、大規模なモスクの建設を推し進め、モスク周辺でのアルコールの販売を禁ずるなど、明らかに宗教性を強めようとしている政権に反発する人も多いようだ。

   6月には、イスタンブールの市長選があり、路上では現政権を批判するデモ行進や、対抗馬を支援するキャンペーンの集まりなどが頻繁に見られた。どちらも若い人がたくさん参加していて、スピーカーからはヒップホップが流れていたのが印象的だった。投票率はなんと84.4%。選挙の日、イスタンブール在住の私の友人の家には、地方に住んでいる家族が投票のために集まって、まるでお祭りにでも繰り出すかのように意気盛んに投票所に向かっていった。

 

 

 

 イスティクラルと呼ばれるヨーロッパ側の大通りには、ブティックや土産物屋が立ち並ぶ。ところどころにトルコアイスの露店が出ていて、口髭を蓄えた大柄の男が大音量のダンスミュージックに合わせ、長い棒でアイスクリームを日がな一日突き続けている。その脇には、長い欠伸をしている猫が一匹、二匹。

 

 イスタンブールは、猫の街と呼びたくなるぐらい、猫が多い。ストリートで暮らしている猫もそうだけれども、私が知る限りほとんどの人が家で飼っている。飼っていないとしても、餌を器に用意し、家の窓を開け放しておくことで、いつでも外から猫が入ってきてご飯が食べられるようにしている人もいる。

 ムハンマドが猫を敬愛したというのが由来で、ムスリムの人々は猫を愛でるとは聞いていたが、まさかここまでとはと驚いた。そして猫たちはというと、人が餌をくれるのをいいことに、一日中、寝転んだり、遊んだりして暮らしている。

 

 私が宿を借りていたあるトルコ人の友人は、街の中心地に家を借りていて、その便利な立地を活かし、AirBnBで部屋を旅行者に貸し、その収入で暮らしている。そんなに広くもない家には3匹の猫がいて、夏で暑いということもあってか、最も涼しい場所を探して、一日のほとんどをそこでゴロゴロして過ごしている。そしてその友人も、一日のほとんどをゴロゴロして過ごしている。飼い主の性格が猫に現れているのか、はたまたその逆かわからないけれども、見ているとほとんど同じような暮らしぶりである。

 もちろん、年がら年中そうしているわけではなく、次に長旅に出る前の一種の充電期間のようだったけれども、それでもここまでのんびりして、あっけらかんとしているのは、すごいことだと思った。念のために言っておくけれども、これは皮肉で言っているわけではない。

 私には、何かを達成しなければならない、そのためには時間を惜しんで常に努力をしなければならない、という強迫観念が少なからず存在していて、のんびりしていると罪悪感を感じ始めてしまい、仮に身体的にはゴロゴロしているようでも、心の中には暗雲が垂れ込め、雷が鳴り、違うゴロゴロが始まってしまう。その結果うまく休むことができないという、馬鹿みたいな悪癖が存在する。

 でもその一方で、生きているからには何かを達成しなければならない、というのは、何か窮屈で、貧しい哲学のようにも感じている。もちろん、情熱を持って何かに取り組むというのは素晴らしいことだし、生きる活力を与えてくれる。でもそれが社会の暗黙の了解になって、何かに情熱を持って努力をしていないと生きている意味がない、という恐怖に人が支配されるようになっては、本末転倒ではないだろうか。

 昨今は、「好きなことをして生きていく」だとか、「場所に縛られない自由な生活」といった標語がメディアに溢れているけれども、それはやはり、その人に大多数の人よりも秀でた能力があるからこそできることであって、そういった価値観が行き過ぎると、情熱や卓越した能力を持っていない平凡な人たちを蔑ろにするような社会になっていきはしないだろうか。

 例えば古代中国の思想家である荘子は、人のためには何の役にも立たないからこそ伐られずに済み、長生きして大きくなれた木を例にとって無用の用、ということを言っていたけれども、そういう価値観について、もっと積極的に語っていい時代に私たちは差し掛かっていると思う。とにかく新しい価値を生み出すことに躍起になっているこの世界は、物やサービスの欠乏によってではなく、その過剰によって滅びようとしているのだから。

 

 ちなみに「好きなことをして生き」、「場所に縛られない自由な生活」をしているのは私のことではないか、と思われる読者の方があるかもしれないから言っておくが、私はそのどちらでもない。

 例えば私は、手放しで旅が好きなわけではない。重たい荷物やギターをもって移動するのはくたびれるし、安宿や人の家に泊まって、他人と同じ空間で暮らすのはどちらかというと苦手な方だ。もちろん、それでも旅をするには理由がある。各地の文化や歴史を、その土地に直接触れて学びたいから旅をしている。何が言いたいのかというと、やりたいことをしていても、やりたくないことを完全に避けることはできない。どんな生き方をしても、同じことが言えるのではないだろうか。

 そしてはっきり言ってお金を稼ぐのが苦手な私は、場所に縛られまくりである。物価が高い国にはどうしても行くことを渋ってしまうし、安宿や人の家にお世話にならなければこんな暮らしを続けていくことはできない。そういう条件の下でやっと生活が成り立っているわけだから、これを自由と呼ぶことはできないだろう。

 なんだかとても残念な証明をしてしまったが、事実だ。

 ではお金がなかったら自由にはなれないのか、という話になってしまうのかというと、そういうわけではないと思う。でもこれは、「自由」とは何か、というとてもディープな話になるので、今回は触れない。

 

 さて話をぐーっと遡る。あまりにひどい脱線をしてしまった。何事もなかったかのように時を巻き戻そう。

 とはいえ、一日中ゴロゴロしているというのは、聞く人によってはちょっと印象がよろしくないかもしれない。弁解のために言うわけではないが、そんな彼女が拵えてくれたトルコ風のサラダは、今までに食べてきたサラダの中でも群を抜いて美味しかった。

 レタスに、バジルにコリアンダールッコラ、パセリにフェンネルの葉を加え、若い緑ネギを添える。トマトと胡瓜、パプリカのスライスに、それほど辛くない緑色の唐辛子。これらの野菜を、実家の庭でとれたオリーブから作ったと言う手作りのオリーブオイルとレモンで和え、ヒマラヤンソルトを一つまみ。シンプルだけども素材の香り豊かな、トルコ風のサラダの出来上がり。ドレッシングなどかけなくとも、レモンと塩、上質なオイルさえあれば、それで充分である。シンプルな味付けが好きな方は是非お試しあれ。

 

 

 話は変わるけれども、そういえばこんな出来事があった。同じ友人の家にお世話になっていたとき、確かイランからだったと思うが、一人の女性旅行者がAirBnBを通じてやってきた。友人から、彼女はムスリムだから、見知らぬ男の人とはコミュニケーションがとれない、その点を了解しておいてくれと予め聞いていたが、蓋を開けてみたらそれどころではなかった。

 夜、話を踏まえて大人しく部屋で読書などをしていると、誰かお客さんが来た風の物音。例の客が来たのだな、と思って変わらず読書に没頭し、しばらくしたあと尿意を催して厠に立った。部屋を出ると友人がいて、様子を伺うと彼女はもう去ってしまったという。

 なぜかと聞けば、知らぬ男の人が泊まっている家で寝ることはできない、同じトイレを使うことなどできないと言って、夜中であるにも関わらず重たい荷物を抱えて帰ってしまったそうだ。そこまで厳格なのかと、少々驚いた。

 

 トルコを旅していると、これまであまり縁のなかったイランやイラク、いわゆる中東出身の人に出会うことがある。インドに滞在していたときも、こちら方面出身の人にはなかなか出会えなかったので、トルコに来てぐっと世界が近づいたような実感がある。

 特に印象に残っているのは、友人の紹介で借りた部屋のフラットメイトだったバワールという男だ。彼はクルド系のイラン人で、向こうの大学で英文学を専攻し卒業、今はこちらの大学にお目当ての教授がいるらしく、その人のもとでクルド文学を学びたいと言っていた。クルド人にまつわる政治の話や、ペルシアの神話シャー・ナーメにある父の子殺しと、ギリシャ神話のオイディプス王にある子の父殺しの象徴的解釈、ジェイムズ・ジョイスが英語使いにどれだけ長けているのか、といった様々なことについて話をした。

 彼は大学で英文学を専攻しただけあって、西洋文化にも精通しているような印象を受けたけれども、イランを旅してきた旅行者に話を聞くと、イランは西洋の影響が未だに薄く、神秘的な伝統文化が色濃く残っているという。治安についてもとても安全で、これはイスラム諸国一般に言えることだけれども、旅人はとても厚いもてなしを受けるそうだ。夏はあまりに暑くて旅どころではなさそうだけれども、いつか冬に訪ねてみたいと思う。

f:id:apoptosis777:20190804052606j:imageクルド系イラン人のバワールと

 

さて、次回はイスタンブールでの音楽生活について書いてみたいと思う。トルコ音楽の独特な音階やリズムについても触れてみたいけれども、私はイスタンブールではほとんど南米のクンビアという音楽を演奏していた。というのも、そこで活動しているクンビアのバンドの路上演奏活動に混ぜてもらっていたからだ。どうしてそうなるに至ったのか、そんな経緯も含めてお伝えしよう。

 

他にも、イスラム神秘主義教団のスーフィの集いに参加したお話など、順次記していくつもりだ。

 

随分漫然とした旅行記になってしまったにも関わらず、ここまで読んでくださった方に感謝。