透明になりたい旅鴉

ギター片手に国内外を旅する哲学徒の旅行記・雑記

大恐慌とかかあ天下

歌は世につれ世は歌につれ、という言葉がある。

歌の内容は世相を反映し、また世相も流行り歌の影響を受けて移り変わってゆくという意味だ。

経済が上り調子で景気が良いと種々の娯楽も勢いを増す。仕事終わりに飲み屋へ繰り出し酒をあおれば歌の一つや二つ歌いたくなるのが人情である。

もちろん人生は歓楽一辺倒というわけにはいかず、悲喜相混じるのが自然だから、悲しいときには悲しい音楽が必要だ。

歌は単に心の色合いを表すだけでなく、内容を伝えて人の共感を誘う。あるいは、歌を聞くことで、「そんなこともあったんだな」と他人の人生を追体験することができる。

かつそれは世相をも映すのだから、社会というマクロな視点からも、個人というミクロな視点からも、人間という錯雑した生き物を理解するのに格好の材料となり得るのではないか。

そういう前提の下で、今回タイムスリップする先は1930年代アメリカ、The Great Depression――大恐慌の時代である。

 

大恐慌とは、アメリカの株式市場の大暴落を発端に世界に波及した1930年代の経済恐慌のことを指す。

ダウ平均株価の急落が始まった1929年以来、1932年までの間に世界のGDPの統計は推計15%も減少した。

世界中で多くの失業者が発生し、工業に依存していた都市部はもちろん、農産物の価格が下落して農村も疲弊した。

 

この世界規模の惨事を準備したのは「狂乱の20年代(Roaring Twinties)」と言われるアメリカの性急な繁栄である。

第一次世界大戦で大きな損害を被った欧州への設備投資や、戦後好況による消費財の需要増など種々の条件が重なり、アメリカ経済は空前の速度で成長した。

「信用買い」という言葉が流行したのもこの時代の特徴で、元手を持っていない庶民も気軽に投資活動に参加するようになった。

アメリカ経済は成長し続けるという漠然とした期待感に誰もが浮足立っていた。なにしろ靴磨きの少年までが株式投資をしていたくらいである(注1)。

また、ジャズなどアメリカを代表する大衆文化が花開いたのもこの時代だった。

 

そんな時代だから、札束をチラつかせて女をたぶらかす成金がそこら中に現れたに違いない。

1943年に「スウィングの王様」クラリネット奏者のベニー・グッドマンが、北部出身の跳ね返り娘ペギー・リーをボーカルに据えて録音した「Why don’t you do right?(どうしてまともにやれないわけ?)」は、狂乱の20年代にそんな男に捕まった女が苦悩を愚痴にする歌だ。

 

You had plenty money, 1922
You let other women make a fool of you
Why don't you do right, like some other men do
Get out of here and get me some money too

1922年、あのころのあんたはお金を持っていたわよね。

それが今じゃ余所の女に馬鹿にされて。

他の男みたいにどうしてまともにやれないわけ?

早く出てってあたしにお金を持ってきて頂戴。


Why Don't You Do Right - Peggy Lee - Benny Goodman Orch 1943

 

この曲が初めに書かれたのは恐慌抜けきらぬ1936年で、実はタイトルも歌詞の内容も違っていた。作曲者は黒人のブルースシンガー、カンザス・ジョー・マッコイ。

当初の曲名は「The Weed Smoker’s Dream(マリファナ野郎の夢)」で、貧乏人のマリファナ吸いが、付き合っている娼婦や千金の夢について歌うというものだった。

公民権運動が始まるのはまだずっと後のことで、黒人は差別を受けて社会から爪弾きにされていた。それでもできる商売が麻薬の密売や売春だったというわけだ。

しかしどういう訳か、カンザスは歌詞を書き換えて女目線のものにした。それを初めて録音したのは、同じく黒人の女性ブルースシンガー、リル・グリーンだ。

ペギー・リーがこの録音をいたく気に入っているのを見て、ベニー・グッドマンが編曲を行いバンドのレパートリーに加えると、瞬く間に人気が出、レコードは全米で100万枚を売り上げ一躍ヒット曲となった。

 

映画「ステージドア・キャンティーン」(上の動画はその1シーン)には、不敵な笑みを浮かべて曲を歌うペギー・リーの姿が見える。

この曲が共感を誘った相手は、どうしようもない甲斐性無しと一緒になってしまった不運な女性だったのか、はたまた意外なところで、ペギーのような勝気な女性に尻に敷かれたい願望のあった男共なのか。

そんな想像をしてみるのも面白い。

 

注1:1928年のとある冬の日、第五代米国大統領ジョン・F・ケネディの父、ジョセフ・P・ケネディは、オフィスに向かう途中靴磨きに靴を磨いてもらっていた。

すると突然、靴磨きの少年から「おじさん、○○と△△の株は買っておいたほうがいいぜ。絶対上がるから」と声をかけられる。

「靴磨きの少年まで相場の話をしている、これは異常だ」と危機感を覚えたジョセフは、すぐに所有株を売り払い、暴落の難を逃れたという。

無常を響かす童声

熊本県球磨郡五木村は、江戸期まで城下町として栄えた人吉市から、川辺川を伝って30キロ程北上したところにある山間の村里である。

ここには壇之浦の戦いに敗れた平家の残党が落ち延びたという、いわゆる落人伝説が残っている。今から八三五年も昔の話ではあるが、その歴史の細流は、一時栄華を極めた一族衰亡の消息を、昭和の世に綿々と伝えていた。

 

おどま盆ぎり盆ぎり、と聞けば、盆からさきゃおらんど、と二の句が継げるという年配の方は多い。戦中生まれの筆者の父は、ひどい音痴であるのにこの歌に限っては節回しをよく心得ていた。

誰の歌唱で覚えているのかと問うても「忘れた」の一言だが、それはかえってこの民謡がいかに人口に膾炙したかを示しているともとれる。歌の名を「五木の子守歌」という。

 

地下人から殿上人、一武門の嫡子から太政大臣にまで昇りつめ、「平家にあらずんば人にあらず」と伝えられるほど一門の権勢を高めた平清盛

日宋貿易を盛んにし、金や木材の輸出によって多くの宋銭を日本にもたらした。これにより貨幣経済の礎を築くなど、国の歴史に及ぼした影響は大きい。

しかしそんな清盛が熱病で死んで5年の後、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ平家は滅亡した。生き残りは四国や九州などに離散し、名も富貴も捨て深山に隠れ住むようになった。その場所の一つが五木村である。

 

筆者は少し変わった経緯で「五木の子守歌」を知った。

ボサノヴァ黎明期のブラジルで活躍したギターマエストロ、バーデン・パウエルがカバーした音源を、たまたまyoutubeで聞いたのだ。ラテンアメリカというよりどことなく地中海風のフレーズに挟まれた日本調の旋律には、胸を締め付ける哀切な響きがあった。

原曲を聞いてみたくなって調べると、女の恨みつらみを歌わせてはこの人の右に出るものはいないというフォークシンガー、山崎ハコの演奏が見つかった。


山崎ハコ-五木の子守唄 (Yamazaki Hako-Itsuki no Komoriuta) with lyrics

 

さてこの「五木の子守唄」は、「子守唄」と名付けられているものの、その実は子をあやすための歌ではなく、子守りをする女童たちが自らを慰めるための「守子唄」だったという。歌詞に少し触れてみよう。

 

「おどま勧進勧進、あん人たちゃよか衆、よか衆よか帯、よか着物」の「勧進」とは、諸国を行脚する勧進聖が単なる乞食、物乞いの意味に変化し、転じて下層民を指すようになったものだ。

「おどま」は一人称であるから、これを歌う守子のこと。「わたしは乞食(のようなもの)よ」と言っているのである。では「よか衆」とは誰か。

 

平家の落人が住み着いたという報を聞き、鎌倉の幕府は監視のため東国の武士を五木村に派遣した。その後これら源氏方武士の子孫は地主階級を形成し、小作人に田畑や農具を貸し出して農園を経営するという構図が出来上がった。

つまり「よか衆」は、「よか帯、よか着物」を身に着けていたこの地主たちを表している。対して「勧進」と自称しているのは、小作だけでは食い扶持が稼げない親に、幼くも子守奉公に出された童たちだったのである。

 

階級差別の激しかった封建時代の話だ。家族から独り離れ他所の家で他人の子をあやす、さぞかし心細い思いがしたことだろう。

「おどんがうっ死んだちゅうて、誰が泣いてくりゅか、裏の松山、蝉が鳴く」。

うら若い女子(おなご)が歌うには、あまりに寂しい歌詞だが、

今の商業音楽とは違って、人に聞かせようという衒い無く歌い継がれた民謡であるから、それが彼女たちの実感だったのだろう。

しかしその感情は、怨みと呼ぶにはまだあどけなく余計に憐憫を誘う。山崎ハコの歌唱はその雰囲気をよく伝えているように思う。

 

筆者の調べの限りでは、この小作人たちが平家の子孫であったことを示す資料は見つからなかった。しかし敗者として身をやつし暮らしていかざるを得なかったその後裔が、勝者の側から差別を受けたことは想像に難くない。

働き口の乏しい山村であれば、小作人になることが唯一の生きる道ということもあったろう。そう考えれば、この歌を歌った守子たちは、何代も前の先祖が残した一門の業を、そうとは知らず背負っていたのかもしれない。

諸行無常の声を響かせるのは、祇園精舎の鐘だけではないという話。

メソポタミア平原と、砂の城塞、マルディンの街並み。

  マルディンは、トルコの南東部、シリアとの国境に近い砂岩の町である。メソポタミア文明を養ったティグリス川とユーフラテス川の二本の川に囲まれているマルディンを含むトルコ南東部、シリア、イラクの北部の一帯は、「アッパー・メソポタミア」、あるいはアラビア語で「島」を意味する「アル・ジャジーラ」と呼ばれている。マルディンはパッチワークされた畑の緑を除けば、一面土色の茫漠とした平野部に突如迫り上がる山の斜面に作られた町で、眼下には広大なメソポタミア平原が広がっている。

 

 2019年8月の現時点で外務省のホームページを確認すると、マルディンの街を含むマルディン県は危険レベル3「渡航中止勧告」が公布されている。最後に更新されたのは2018年の11月のようだから半年以上前のことだけれども、さすがに私も行くのにはためらいがあった。この地域には地理上クルド人が多く住んでいて、シリアとの国境付近ではクルド人武装勢力と治安当局との衝突などが2018年までしばしば起こっていた。

 

 それでも私はこの地域にとても興味があったから、どうしても行ってみたいと思い、事前に何人か事情に精通していそうなトルコ人に聞いたり、インターネットで関連した記事を読んでみたり、治安に問題がないかどうか綿密に調査していた。すると返ってきた答えは満場一致で、これまで問題があったのはより辺境の地域で、マルディン自体には警察も多く、まず安全であるとのことだった。

 

 たまたま友人が譲ってくれた地球の歩き方にも数ページが割かれているのをみると、そこまでマイナーな場所ではないようだけれども、この地域に観光する外国人は少ないらしく、チケットをとったバス会社のスタッフには「マルディンは観光地じゃないよ」と言われてしまった。

 なぜそんなところに行きたいと思ったのか、話はそれから一週間ほど前に遡る。

 

 私はクシャダスという、エフェソス遺跡のあるセルチュク近郊のリゾート地に来ていた。というのは、インドでとても世話になった恩人がインドからトルコにちょうど旅行に来ていてクシャダスに滞在する予定だというので、そこで待とうと思ったのだ。

 宿代を節約したかった私は、随分前に登録して一度も使ったことがなかったカウチサーフィンを試してみようと思い、クシャダスに住んでいてホストになれると表示されている数人にメッセージを送ってみた。その中に一人、泊めてあげてもいいよという返事をくれたトルコ人の女性がいた。彼女の名前はオルジャンと言った。

 地質学を大学で学び博士号までとった彼女は、地下資源の採掘関係の仕事につくべく就職先を探しているとのことだった。もともと都会っ子だったのが、家で植物を育て始めたらそれが心をとても穏やかにしてくれると気づいて、自然の中で暮らすことを望むようになり、オーストラリア人の夫と共に鄙びた山村に一軒家を買ったとのこと。パーマカルチャーの類に興味があるというので、福岡正信のことを教えたら喜んでくれた。

 宗教や哲学にも深い関心があるようで、東洋の哲学や宗教の実践、そしてイスラム教について話をして盛り上がった。ちょうど私はスーフィーのリトリートを終えたばかりで、ここからその聖地であるコンヤに行こうと思っていると伝えたら、まさにそのコンヤに祀られているスーフィーの聖者ルーミーのことを描いたForty Rules of Loveという小説を教えてくれた。

 話題はキリスト教に移り、彼女がグルジアを旅していて訪ねた教会の話をしたときに、私もカトリックよりは正教会の雰囲気の方がしっくりくるというようなことを言ったら、トルコの南東部のマルディンにシリア正教会修道院があり、最も古いキリスト教の形が今も保たれている、ということを教えてくれたのだ。また、その周辺には日本ではあまり知られていないヤズィーディー教徒のコミュニティもあるという。東方の秘教的雰囲気に惹かれる私は、それだけでマルディンに行ってみたいという気持ちが俄然湧いてきたのだった。

 

 スーフィーの聖地コンヤから夜行バスで14時間、夜の21時に出発したバスがマルディンに着いたのは、もう昼時に差し掛かろうという11時近くだった。南東部アナトリアの乾燥したステップ平原を走るバスは、いくつか軍の検問をくぐった。次第に道路には傾斜がかかり、迫り出した台地の岩壁を縫うように標高を上げていった。砂岩でできた城塞のような山が前方に姿を現し、近づくにつれて斜面に作られた人々の集落の姿が認められるようになった。人家の色もみな同じように乾いた土地の色をしている。

 

 マルディンは新市街と旧市街の二つの区画に分かれる。歴史的な史跡が残る旧市街には、想像したのとは打って変わってたくさんのトルコ人観光客が来ていた。私が到着したのはイスラムの犠牲祭の真っ只中であり、休日だったということもあったのだろうけれども、鄙びた田舎町を予想していた私の期待は裏切られた。それでもやはり外国人観光客はほとんど見られず、チェックインしたホテルのスタッフも、親切ではあったけれどもほとんど英語が喋れなかった。

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 荷物を置いてシャワーを浴びた私は、バスで過ごした一晩の疲れも意に介さず街へと繰り出していった。外はとにかく暑い。熱帯特有のじめじめした気持ち悪さは感じないけれども、太陽の熱線がじわじわと体力を奪っていくのを感じた。私はあてもなくぶらつきながら、マドラサと呼ばれるイスラムの古い神学校の旧跡などを訪ねていった。

 マドラサは学校と祈りの場であるモスクが併設されているような場所で、門をくぐると大抵、石造の建物に囲まれた中庭に出る。こじんまりした中庭には慎ましやかな清潔感が漂い、頭上から容赦なく差し込む日光も、白い芙蓉の花びらに触れれば柔らかい飛沫となって優しく降るように感じられた。中庭の西側には石樋が設けられ、山から流れる来る湧き水を渡して貯めるプールがあり、空間の清涼感を高めるのに一役買っている。

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 マドラサから外に出て再び市街を歩き回る。商店が並ぶ麓の通りを除けば丘の斜面はほとんどが人家で、その間を縫うように石畳の路地が走っている。いくつもの階段をぐんぐん登っていくと、時折家からは駄々をこねる子どもの声や、ラジオの音声が漂ってくる。山羊の糞の匂いがして、私はインドで暮らしていたヒマラヤ山中の村のことを思い出していた。ここの生活感にはどこかそれに似た、近代以前の素朴な雰囲気があった。基本的に観光地や都市ばかりを回っていた私は、その山羊の糞の匂いにとても心安らいだ。地元の人の「どこから来たの」と聞いてくる気安い感じにも、都市にはないリラックスした響きがある。

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f:id:apoptosis777:20190906175328j:image(マルディンはその建築の美しさでとよく知られている。この門などもアーチのところにレースのような細かい意匠が施されている。これらは12世紀から15世紀にかけてこの一帯を支配したアルトゥク朝の様式らしい。)

 

 ほとんど頂上というところまで来ると、軍事施設になっているため立ち入りできない古い城塞のすぐ下に出た。木陰を見つけて涼んでいると、隣で煙草を吸っていた初老の男性がわざわざ家の中から冷たい水を汲んできてくれた。厳しい環境で暮らしている人々は、人の苦労をよく思い遣ってくれる。

 一言感謝の言葉を述べ、再び道を歩き始める。ゆるやかな坂を越えると、道の脇を少し降ったところに墓地が見えた。人家はもう途絶えていて、そこからは広大なメソポタミア平原と、それを見下ろすマルディンの街が一望できた。

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 統計的なことはわからないけれども、どんな国にいっても墓場は景勝地に作られていることが多い気がする。もしそれが死者に素晴らしい景観とそこに吹く風を楽しんでほしいという理由によるのであれば、なかなか粋なことではないかと思う。どんなに地を這いつくばるような艱難を舐めて生きたとしても、後生くらいは穏やかで清潔な場所に眠っていたいものだ。墓場はよく肝試しの舞台になったりして恐れられることが多いけれども、私は昔よく街中で一人になりたいときは墓地に行っていた。

 

 限りなく広がっていくように見える地平線は、霞の中に消えていく。

 肥沃な三日月地帯と呼ばれたメソポタミア文明発祥の地、この一面乾燥したほとんど砂漠のような土地には1万年前森が茂っていたという。その多くが人間による伐採で失われてしまった。文明の勃興は自然の破壊と裏腹である。紀元前3千年紀にメソポタミアで書かれたギルガメシュ叙事詩には、巨大な神殿を残すことによって自らの名を後世に留めようと考えた王ギルガメシュが、森の番人フンババと戦った末それを打ち殺し、建材を作るのに必要な木を得るため盟友エンキドゥと共に森を平らげていく描写が残されている。エデンの園を追い出された人類は額に汗をして働かなければ糧を得られなくなってしまった。そしてその汗を乾かし、疲れた体を休めるための木陰も、自ら失ってしまったのだ。

 辺りの墓石を見回すと、何かの紋様が刻まれており、その溝に合わせて緑の塗料が塗ってあった。私にはそれが、この土色の土地で緑に憧れる人々の気持ちの表れに見えた。真偽は定かではないけれども。

 

 再び丘を降った私は、今回マルディンに来た理由の一つであるシリア正教の教会を訪ねてみることにした。

 その教会の名はクルクラール・キリセッシ。トルコ語で40人教会という意味だ。またモル・ベーナムという別名がある。ベーナムとは4世紀に当時ササン朝ペルシアの傘下にあったニネヴェ国の王子で、妹の癩病キリスト教徒の隠者に癒してもらったことから妹と40人の従者と共にキリスト教に改宗するも、それを理由に父親に皆殺しにされてしまう。この教会はその殉教者たちに因んで建てられたもので、それが名前の由来になっているようだ。

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 写真を見てもわかるように、装飾らしい装飾はほとんど見られない、とても簡素な作りである。中に入ってみると、外の暑さとは打って変わって冷房が効いているかのような涼しさだった。内部の撮影は禁じられていたので残念ながら私から見せられる写真はないけれども、気になる人はこちらのサイトhttps://offbeattravel.blog/mor-behnam-kirklar-kilisesi.htmlに紹介されているのでご覧いただきたい。

 シリア正教の教会には、他の正教会と同じようにカトリックの教会に見られるような彫像はなく、その代わりにキリストやマリア、聖人たちを描いたイコン画が掲げられている。この40人教会にもいくつかの宗教画があったけれども、マリアとキリストといったすぐに判別できるものの他には説明書きなどもなく、何が描かれているかわからなかった。誰か事情を知っていて英語がわかりそうな人はいないかと辺りを見渡すと学生のような若い男の子がいたので話しかけてみた。たどたどしい英語ではあったが、いくつもの質問にも嫌な顔をせず答えてくれた。といっても、ほとんどは彼にもわからないようだったけれども。

 

 例えばこれは、先ほどのサイトから写真を拝借したものだけれども、石に打たれ殺されようとしている殉教者の絵だという。

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 キリスト教には、イエス自身が十字架にかけられたことに始まって、受難の物語がとても多く、他の宗教に比べてもより強調されて語られるように思われる。

 殉教とは、自らの信仰を堅持したがために異教徒などから迫害を受け死に至らしめられることである。キリスト教は4世紀にミラノ勅令でローマ皇帝から公認されるまでは常に迫害の憂き目にあい、多くの殉教者の血によってその後の隆盛が贖(あがな)われた。私が教会に行くといつも感ずる一種の悲壮感は、この宗教そのものがそういう歴史に因って育ったことに因るのだろう。悲しみが大きければ大きいほど、救いの光が届く深度もより深まっていく、ということだろうか。

 

 仏教では、私たちが経験する出来事は全て、過去に自ら作り出した業によって起こると言われている。因果応報の考え方である。しかしキリスト教では、この世の出来事は全て、一枚の葉が木から落ちることですら、神の意志によって起こると信じられている。であるからには、私たちが不条理に感じる苦難や残酷な現実も、実は神の意志のままに生じているのである。ではなぜ神はこの世に悲しみや苦しみをもたらしたのだろうか。

 悲しみや苦しみは、人に与えられる試練であるという説明もある。その苦難を乗り越えてこそ、霊的な成長を遂げることができるのだという。しかしこの世には、その悲しみや苦しみに打ちひしがれ、立ち直る意力を無くしてしまう人の方がもっと多い気がする。試練を乗り越え、強くなって立ち直ったという美談は巷に溢れているけれども、私はそういうものにはあまり共感ができない。

 あるいは、喪失によって己を空しくし、信仰に目覚めさせるためだろうか。世俗的な満足を得ている人に神を想えというのは難しい話である。財産や家族、何か大切なものを失うことによって世を儚み信仰の道に入るというのはよくある話だ。

 でもそういうことであれば、神は初めから信心深い人々でこの世を満たせばよかったのだ。なぜ敢えて不信心者や狂信者、あるいは違う宗教を信じるものを創り、互いに争わせたりするのだろうか。

    人は弱いものである。旧約聖書のヨブのように、「主は与え、また奪う。その名は誉むべきかな。」と言える人など、どれほどいるだろうか。

 

 これはいつか機会があれば、キリスト教かあるいはイスラム教のお坊さんに尋ねてみたい疑問である。もし上記のような疑問について納得できるような解説をしている本をご存知の方がいればご紹介願いたい。

 

 

 教会を出た私は、夕焼けが美しく見れるという噂を聞いて、丘を下った街外れにあるマドラサに向かった。マドラサでは、白いウェディングドレスで美しく着飾ったトルコ人女性とタキシード姿の男性が友人たちと写真撮影に興じていた。

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 夕焼け時ほど、一人旅の孤独を感じさせる時間はない。

   それがなぜだかはっきりとはわからないけれど、優しい黄昏の光を見ていると、自分の感情が堅い枠にはめられている心から溶け出して、溢れていってしまうような感じがする。だからそれを受け止めてくれる器の存在を期待してしまうのかもしれない。

 

 夕陽が沈んだあとその場を立ち去るときはいつも、そういった自分の弱さと決別するような気持ちにさせられる。

 

聖母マリアの家を訪ねて

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(イスタンブールのコーラ修道院で撮った聖母子像。赤子のイエスを抱えるマリア)

 

 ヴァージン・メアリー。処女のまま救い主イエスを身籠り、この世に産み落とした聖母。十字架に磔にされたイエスは、弟子のヨハネに彼女の行く末を託した。それからのマリアの生涯について公式に伝える記録は残されていないが、伝説によるとイェルサレムでのユダヤ教徒からの迫害を逃れたヨハネはマリアを伴ってアジアのエフェソス(日本語訳聖書ではエペソと称される)に辿りつき、彼女を静かな山の上に住まわせ、甲斐甲斐しく世話をしたという。マリアはそこで晩年を過ごし、生涯を閉じたと伝えられている。 

 その聖母の家は、ここエフェソスで訪ねることができる。観光客や巡礼客にとってもお馴染みのスポットで、たくさんの人々がそこを訪れる。しかしその場所が発見されたのは、そう昔のことではない。その物語は、19世紀初頭のドイツに遡る。とても興味深い話なので、少し長くなるけれども紹介させていただきたい。

 

 1774年、アンナ・カタリナ・エンメリックは現在の北ドイツにあたるウェストファーレン地方の貧しい農村に、9人の兄弟姉妹の内5番目の子として生まれた。家には子供達に教育を受けさせるような経済的なゆとりはなく、彼女も幼い頃から農家を手伝ったり、裁縫工場での奉公をして家計を助けていた。

 

 カタリナ・エンメリックには他の子供たちとは一風変わったところがあった。羊飼いの姿をした天使が羊の世話を手伝ってくれたり、聖母マリアが幼いイエスを連れて現れ自分と遊ばせてくれた、といったようなことを口にするようになったのである。彼女が病気になったときは、その幼いイエスが薬になる草を野草の中から教えてくれたという。彼女がそうやって用いていた薬草の中には、当時はまだ効能の知られていないものもあった。

 そういった神秘体験の数々に伴って、彼女の信仰は敬虔さを増していき、修道女となってその一身を神に捧げることを望むようになった。修道女となる持参金を捻出するほどの余裕がなかった彼女は、修道院がオルガン奏者を募集していることを知って、オルガンを学ぶためその奏者を育てる一家に世話になることになった。しかしその家も極貧のうちに暮らしていたため、彼女は無償で召使いとなることを選び、家事をこなしていた。結局、オルガンを学ぶ時間は得られなかった。

 28歳になったカタリナ・エンメリックは、自身がオルガン奏者となることは叶わなかったものの、オルガン奏者として修道院入りすることが決定した家の娘に伴って修道女となることを許された。しかしその後も彼女は、健康状態の悪化と、数々の神秘体験や、彼女自身の宗教的熱狂が引き起こす他の修道女との間の軋轢に苦しむことになった。

 

 彼女はそのとき、すでに聖痕を得ていた。彼女の言によれば、修道院に入る4年前、イエス・キリストが花の冠と荊の冠を携え彼女の前に現れ、どちらが欲しいかと彼女に尋ねた。荊を選んだ彼女の頭にその冠を載せたキリストはどこかに消えてしまい、それから額とこめかみに激痛が走るようになった。翌日には荊の冠の傷跡のようなものが現れ、それ以降時に流血を伴い、昼夜を問わず痛むようになったという。彼女は頭に被り物をして、人に知られぬようそれを隠していた。

 

 国王の命令で修道院が閉鎖になり行き場を失った彼女は、最終的にはある司祭の世話で貧しい未亡人の家に居候させてもらうことになった。

 彼女の健康状態は、ベッドで寝たきりの生活を送らなければならないほど悪化していった。彼女がさらなる聖痕を受けたのは、その最中である。両手、両足、右脇腹(いずれもイエスが十字架に磔にされた時に傷を負った箇所である)に加え、彼女の胸には十字の形をした傷跡が現れた。これはついに衆目を集めることとなり、彼女のもとには神学者や医師を始め、奇跡を目の当たりにし、その恵みに肖ろうという信者など、多くの人が訪ねるようになった。数年に渡って炎症も化膿も起こすことなく、まるで新しくつけられたかのような状態を保っている傷口を見た医師たちは、それが超自然的な現象であると結論づけざるを得なかったという。

 そうやって彼女のもとを訪ねた人々の中に、当時すでにロマン主義の詩人として名を馳せていたクレメンス・ブレンターノがいた。1819年から1824年に渡りブレンターノはカタリナ・エンメリックのもとに通い、彼女の口から語られるヴィジョンの数々に耳を傾け、それを記録していった。

 聖母マリアの家が発見されるに至ったきっかけは、それらのヴィジョンの中に含まれていた。彼女は、ヨハネが彼女のために拵えた山上の家について、その姿形から周囲の環境まで細部に渡って語り、ブレンターノに聞かせていたのである。

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アンナ・カタリナ・エンメリック

 以下その記録から当該部分を一部訳して引用する。

  マリアが住んでいたのはエフェソスの街中ではなく、郊外であった。同じ地域には彼女の親しい友人たちも住んでいた。その住まいはエルサレムからエフェソスに向かう道の左手、街からはおよそ3時間半ぐらいの道のりの丘の上にあった。丘から急な斜面を降ったところにあるエフェソスは、南東から近づいていくとまるで目の前にあるかのように高台の上に現れるが、近づいていくにつれてその場所を変えていくように見える。大きな街道が街に通じており、樹下の地面は黄色い果実に覆われている。狭い小道が南に向かって丘へと通じており、その頂上付近は平らでない台地となっている。円周をぐるっと回るのにはおよそ半時間ほどかかり、丘全体と同じように、草木によって深く覆われている。そこには何人かのユダヤ人たちが移住してきていた。人里離れたとても寂しい土地ではあるが、斜面は肥沃な土を蓄え、いくつかの岩窟があり、砂地に囲まれた空気は乾燥していて清らかだ。野生的な場所ではあるけれども、荒涼としているわけではない。周囲には滑らかな幹をしたピラミッド形の木々が、地面に大きな影を落としている。

 聖母を連れてくる以前に、ヨハネはすでに彼女のために家を用意していた。イエスの教えを奉ずるいくつかの家族と、聖女たちが既に移住してきており、そのうちの幾人かは木を使って簡単な家のようなものを作り、地下の洞穴や岩窟で暮らしていた。今にも崩れそうな小屋やテントで暮らすものもいた。彼らはみな迫害による暴力を逃れてここにたどり着いたのだった。 自然によって与えられたものだけを用いた簡素な暮らしは、隠者たちの住まう廬のそれによく似ている。彼らの住まいは規則によって、互いにそれぞれ歩いて15分ぐらいの距離に建てられていた。居住区全体は、ばらばらになった村のようだった。

 マリアの家だけは唯一石で造られており、その背後を少し進めば、立ち並ぶ木々や数々の丘越しにエフェソスと、たくさんの島が浮かぶ海を望む頂上に至る。そこはエフェソスよりも海に近く、海岸からはおそらく数時間もあればたどり着けるだろう。その地域は人気がなく、訪ねる者もほとんどいないようだった。近くには城があり王が住んでいるが、既に退位させられた後のようだ。ヨハネはしばしば彼を訪ね、ついには彼を改宗させた。その城はのちに司教の聖座となった。聖母の住まいとエフェソスの間には、くねくねと蛇行する小川が流れている。

 (アンナ・カタリナ・エンメリック『聖処女マリアの生涯』より拙訳)

 

 カタリナ・エンメリックは、マリアの家の外見についても詳細に語っていた。長方形の石造の家。暖炉がついており、屋根は丸屋根で、後壁も丸みを帯びている。丸屋根になっている部屋の隣にはマリアの寝室があり、そこに湧き水が流れ入るようにしてある。

 彼女はさらに、マリアが64歳で亡くなり、近くの洞窟に埋葬されたが、すぐ後に誰かが棺の中を確認すると、遺体はどこかに消えていた、ということまで述べた。その後マリアの家は教会に作り変えられたという。

 カタリナ・エンメリックもブレンターノも、その生涯でエフェソスを訪ねたことはなかったにも関わらず、本が出版されてからしばらくした後、実際に使節団がその記述に基づいてエフェソス近辺を探索したところ、それにぴったり一致する廃墟が見つかった。調査によると、その廃墟は紀元4世紀に作られた部分と、紀元1世紀に作られた部分とでなっていることがわかった。ローマ教皇の訪問などを受け名聞が高まった建物は1940年代に修復され、今では小さな教会となっている。

 

 エフェソス周辺の遺跡を回るツアーの一環としてその家を訪ねた私は、正直言ってあまり浮かない気分でいた。というのも、その前にツアーのプログラムとして、全く興味のない革製のファッショングッズを作る会社のプレゼンテーションに参加させられていたからである。ツアーを契約した時点では、エフェソス近辺の遺跡を回るということだけしか知らされていなかったので、それはあまり嬉しくないサプライズだった。物価の安いトルコにしては、結構いい値段を払ったので、ぼったくられたような気分になってしまった。

 冷房がガンガン効いた部屋で、どうみても金持ちには見えない旅行者であるわずか四人の私たちに向かってポーズを決めていくモデルたち。音楽と照明の派手さがまたなんとも状況にそぐわない感じがして、なんだかいたたまれなかった。

 

 観光地を回っていると、もちろん仕方ないことだというのはわかっているのだが、観光客の多さと、行楽気分の彼らの振る舞いに、しばしばげんなりしてしまうことがある。なぜ古代遺跡にまで来て全く関係のない馬鹿げたポーズの写真を撮ろうというのか。見ていると、歴史や遺産そのものに興味があるというよりは、ただ観光地として有名でコースに入っているからとりあえず訪ねている、という人が大多数のように思えてきてしまう。

 もちろんその収入をアテにしている政府は、どんな遺産であっても観光客を惹きつける価値があればそれをプロモートするのが自然な成り行きだろうし、そのお金によって修繕や保存が可能となり、私たちのような遠い時代に暮らしているものでも過去の遺産に触れることができるのだから、頭ごなしに批判できるものではないけれども、ただの見世物となってしまい、人々の気持ちも敬意も通わなくなった石くれや神々の像を見ていると、なんだか複雑な気持ちになってしまう。人間の自分が石の気持ちを忖度するなんておかしな話かもしれないけれども、こうやって心無い人々の好奇の視線に無闇に晒されるぐらいであったら、瓦礫の中に埋もれて静かに眠っていたほうがマシだったかもしれない。

 

 そんなことをあれこれと考えながら、私は車の中で聖母マリアの家に続く山道を上っていた。高度があがるにつれて草木の緑は濃さを増し、山の空気は水々しく、炎天下の中乾ききっていた私の身心を潤してくれた。

 

 ガイドの人の話によれば、ヨハネは街からこの山まで、マリアを世話するために毎日のように通っていたという。馬を使わなかったのは、あまり目立つとエフェソスに暮らす異教徒たちに居処が知られ、迫害を受ける恐れがあったからだ。

 当時のエフェソスではアルテミスを初めとしたギリシャアナトリアの神々を崇拝する多神教(いわゆるペイガニズムである)が支配的であり、姿形を持たない絶対の唯一神について説くユダヤ教徒キリスト教徒は少数派で、大多数の人々の反感を買っていた。それは信仰だけに関わる問題ではない。原則として偶像崇拝を禁じていた彼らは、アルテミスといった神々の像を作ることで生計を立てていた地元の石工などから反発を受けていた(新約聖書使徒行伝の19.24を参照されたし)。

 歩いたら2〜3時間はかかるような道のりである。今でも敬虔な巡礼客などは、そのヨハネの足跡を辿るようにエフェソスの街から歩いてこの山を登るという。

 

 駐車場を過ぎて園内に入ると、道の脇にはカフェや土産物屋が並ぶ。他の観光地となんら変わることのないありふれた光景だ。しかし少し歩みを進め、マリアの家に近づいていくと、雰囲気は巡礼地のそれに変わっていった。鮮やかな緑色をした梢が風に揺れ、敷石の上には木漏れ日がチラチラと差し、夏盛りのセミの鳴き声が観光客の雑踏をかき消して、一種静謐な趣をその空間に与えていた。

 割石積みで作られた簡素な建物は上から見るとくの字型をしていて、扁平な丸屋根がつけられている。アーチ型の入り口をくぐって中に入ると、中は洞窟を思わせる造りになっていて、外壁の土色に比べるとどことなく全体的に黒ずんでいて、暗い雰囲気を醸し出していた。

f:id:apoptosis777:20190821210252j:imageマリアの家外観

 

 参拝客がお供えできるように用意された蝋燭を一本手に取り、奥の部屋の中央に配されたマリア像に近づく。像の前では、化粧の濃い白人のマダムが跪いて何かを一生懸命祈り、マリアの足に口づけをしていた。私はそれをただぼーっと見つめていた。

 彼女が去ったあと何をしたのか、実はあまり覚えていない。普通ならマリアの像の前に立ち、祈りでもしたのだろうけれども、その時の私はもしかしたらそういう気分ではなかったのかもしれない。

 

 神の子とはいえ、彼女にとっては独り子であったイエスを失い、一人見知らぬ土地の山の上で暮らす母の気持ちを少し想像してみた。その暮らしは、祈りに満ちた平和なものだったのか、それとも侘しい、亡き子を想う一介の母のそれであったのか。私たちにそれを知る術はないけれども、イエス自身や、彼の弟子たちの受難の歴史に漂う悲壮な雰囲気が、その家にも漂っているように感じられた。でもそれは、耳をすませば嘆き声が聞こえてくるような類の悲しみではなく、長い時間をかけて堆積した沈黙の層の下で眠る、安らかな顔をした悲しみである。

 かつて悲劇が起こった土地には大抵、その悲劇の残り香が香るものである。そしてそこを訪ねる人々はその香りによって、まるでそれが自分に起こった出来事でもあるかのように、漠然とした喪失感を覚える。しかしその喪失感が持つがらんどうの響きは、何かを得ることよりも、失うことの方にこそ人生の哲理があるのだ、ということを伝えているように私には聞こえる。悲しみの真っ只中で人生を呪う慷慨の歌でなく、時が経ても癒えない遣る瀬無さを慰める挽歌。  

 このマリアの家にも、そんな沈黙の響きが漂っているようだった。

 

 家を出て右手に坂を少し下ると、マリア自身がそこから水を飲んでいたと言われている湧き水があった。多くの人がマリアが口にした恵みにあやかろうと、容器を持参して渾々と湧き出るその水を汲んでいた。少し先には壁一面に、ちょうど日本の神社のおみくじのように、たくさんの紙切れが結びつけられていた。どうやら、願いを書いた紙をそこに結び、落ちることなく留まっていれば、願いが叶うと言われているらしい。

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 中には紙を持っていなかったのか、ビニール袋の切れ端に願いを書いて結んでいる人たちもいる。地面に目をやると、風に飛ばされてしまったのか、落ちてしまった願い事もたくさんあった。そんな簡単なことで叶わなくなってしまうなんて馬鹿な、と思いながらも、私は持っていた手帳の一部を破り願い事を書いて、紙に傷がつかぬよう気をつけながら、連なっている紙の一端に力強く、しっかりと結びつけた。

 こういうまじないごとをするたびに、こんなことをしたって甲斐がないという懐疑的な自分と裏腹に、切実な思いを真剣に託している二人の自分がいることを発見する。そして顔を見上げると、そこにはたくさんの人が同じように、ひとひらの紙きれに願いを託していた。

 風に吹かれて地面に落ちてしまった願い事について、そんな簡単なことで、と私は書いたけれども、思えば私たちの未来だって、ちょっとした出来事一つでがらっと全てが変わってしまったりするのだ。そう考えると、人間の運命も、紙切れと同じようにか弱いものではないか。

 そしてそんなたった一枚の紙切れに願いを叶える力があると信じる私たちは、滑稽といえば滑稽である。でもそんなところに、動物の中でも変わり種のこの人間という生き物のいじらしさがあり、そのいじらしさこそが、私には何か神聖なもののように感じられたのだった。

古代ギリシャの都市遺跡、エフェソスを訪ねる。第一部:リディア王のクロイソスの話と、豊穣神アルテミスの異形について。

 エフェソスは、アナトリア半島西部に位置する古代ギリシャ都市の名前だ。

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Ephesus (エフェソス)

 幼い頃からギリシャの神話が好きでよく読んでいた私は、トルコにいるのもいい機会だと思って、古代ギリシャの神話世界に浸りに、イズミル郊外に位置するその遺跡を訪ねた。結構な分量になりそうなので、何回かに分けて書こうと思う。歴史と神話の話が中心になるので、好きな人にはいいかもしれないが、興味がない人には少し読みづらいかもしれない、ということを予め断っておく。

 

 

 

 まず第一部は、エフェソスの歴史の概説、そしてクロイソスという一度この土地を支配したリディア王国の王の話、この都市の名が広がるきっかけとなったアルテミス神殿の話をしようと思う。

 第二部はエフェソスの都市遺跡を写真を交えて紹介。

 第三部は、キリスト亡きあと、迫害から逃れ、聖母マリアを連れてエフェソスにやってきた使徒ヨハネの話と、マリアが晩年を過ごしたと言われている家の跡地を訪ねたときの話をしようと思う。

 

  それでは第一部の始まり始まり。

 

 紀元前1100年ごろに、エーゲ海を隔てた向かいの国、アテネの王族出身のアンドロクロスが、新たな国を建てるのにふさわしい場所を聞き出すべく、デルフォイの神殿でアポロンの神に伺いを立てた。返ってきた答えは「魚と猪が標べとなるであろう」というものだった。

 ある日アンドロクロスは友人たちと焚き火をして魚を焼いていた。すると鍋から魚が躍り出て、同時に飛び散った火の粉が近くの茂みを焼き、野生の猪が飛び出してきた。彼はそれを追いかけ屠った。 

 アポロンの神託そのままに魚と猪が現れたことに納得したアンドロクロスは、その土地に自らの国を建てた。これがギリシャ植民都市エフェソスの由来である。

 

 しかしヘロドトスを始め、いくつかの古代の歴史家の言によれば、ギリシャ人たちが住まう以前、この土地には先客がいた。屈強な女戦士アマゾネスたちである。彼女らは男と暮らすことをよしとせず、戦あるいは子孫を残すといった特別な事情なしでは男と交わらなかった。エフェソスはもともとこのアマゾネスたちによって付けられた名前だという。

 ちなみにアマゾネスが住んでいたのは紀元前3000年ごろの話であり、紀元前1400年ごろには鉄器を用いたことで有名なヒッタイトが住んでいたことが確認されている。

 

 ギリシャ人の都市として繁栄を遂げたエフェソスは、紀元前6世紀クロイソス率いるリディア王国の侵略を受けた。リディア王国はアナトリア半島のほぼ全域を治め、様々な小国を統治下においた帝国でもあった。歴史上初めて貨幣を鋳造したことでも知られている。

 

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クロイソス王治世下のリディア王国の版図

 

 クロイソスはそのリディア王国の勢力がもっとも盛んであったときの王であり、いまだに英語では富裕な人を形容するのにas rich as Croesus「クロイソスのようにリッチだ」という表現が用いられるほど、豪奢な生活を送っていた。王国の首都であったサルデスでは、神殿は金で作られているほどであった。

 

 彼には一つ、トルストイも自著で取り上げた、よく知られた逸話がある。

 ある日クロイソスのもとに、アテネから学者として名高いソロンが訪ねてきた。遠方からの賢人の訪問に喜んだクロイソスは、自らの権勢と富を示さんとして大層豪華なもてなしをした。

 しかし客人はあまり喜んだ様子を見せない。訝しく思ったクロイソスは訊ねた。

「ソロンよ、貴君はこれまでに様々な国を旅してきたと聞いている。その中で、朕よりも栄えているものに出会ったことがあっただろうか。貴君はその有名な学識もさることながら、実際の見聞をも重んずる真の識者である。その貴君に問う、この世界で最も幸せな者は誰であろうか」

ソロンは謹厳実直で知られた人物である。余計な世辞は抜きに素直に意見を述べた。

「王よ、それはアテネのテラスにございます」

 当然自分がその答えであることを疑わなかったクロイソスは驚きながらも聞いた。

「なぜそう思うのか」

「テラスは貧しくも裕福でもありませんでした。がしかし彼の子はみな全て高潔で優れた人物となりました。テラスは自らの孫が生まれるのを見、老年に至って国のために戦い、全てのものから尊敬を受け、誇りのうちに戦死を遂げたのです」

納得しない様子のクロイソスだが、問いを続けてみることにした。

「ではその次となるのは誰かな」

「それはアグラウスに違いないでしょう。彼は自らの農園をとても気に入っていて、生涯を通し離れようという気を全然起こさなかった程です。彼はそこで、彼を好く良き友人たちと愛する家族に囲まれて一生を終えました」

 

 こんな調子で話は続き、ソロンはいつまで経ってもクロイソスの名を口に出さない。しびれを切らしたクロイソスはついに話を割ってこう言った。

アテネからの客人よ、貴君のせいで朕は混乱している。この栄えあるリディアの王であり、この世で肩を並べるものがないほど富を蓄えた朕が、貴君が今並べたただの凡人に過ぎないような輩たちに比べて、幸福でないというのか」

「おおクロイソス王よ、誤解なさらないように。私はただ真実であると確信できることのみを述べているに過ぎません。王が蓄えた富は人々の理解を超えるところであり、今日において、あなたほど人間が欲望しうる夢を叶えた人は、全世界を探しても見つからないでしょう」

ソロンは続ける。

「しかし、私はあなたと同じくらい富んだ者で、最も平凡で貧しい者よりも不名誉な死を遂げた人を知っています。王よ、人生とは不確かなもので、神々が明日我々にどんな運命を授けるか、知るものはありません。したがって、その人が幸福であったかどうかは、死を迎えるその時まで決定することができないのです」

 ソロンの含蓄深い進言は、栄華の真っ只中を生きる王の心には届かなかった。そのまま二人は別れ時は過ぎ、クロイソスはすっかりソロンのことを忘れてしまった。

 

 ある日、クロイソスの愛息子が狩りに出かけ怪我を負い、それが元で死んでしまった。悲しみに暮れた二年の後、キュロス二世が率いるアケメネス朝ペルシアの軍との間に戦争が起こる。デルフォイの神託を取り違えたクロイソスは、勝てない戦を勝てる戦と勘違いした。その結果、ペルシア軍は次々とリディア軍を破り、首都であるサルデスに侵攻。クロイソスは捕らえられ、都の広場には薪が組まれた。そして彼はその上で、今にも火あぶりにされようとしてた。

 王の胸中には様々な思いが去来する。朕が死んだあと、民は朕のことをなんと言うのであろうか。一時は世界の富を我が物とし、人が享受し得るあらゆる幸福に恵まれた朕が、息子も国も失い、今はこうして灼熱の炎に焼かれ、苦しみのうちに死んでいこうとしている・・・。

 突然、クロイソスの脳裏に一つの名が浮かんだ。彼はその名を、溢れる涙と共に叫んだ。

「おお、ソロンよ!貴君こそ真の賢者であった!ソロンよ!」

 ペルシア王は、クロイソス王のその悲痛な叫びを聞き、興味をそそられ、通訳の者に内容を聞いてくるように命じた。

「朕はただ、ある一人の賢者の名を叫んでいただけである。ソロンは朕に、朕の持っている全ての富と栄光を集めたよりも価値がある真理を明かしてくれたのだ」

 キュロスはソロンとクロイソスの間に交わされた会話について聞き、自分もクロイソスとなんら変わりないと思った。話に感銘を受けたキュロスは、火を消してクロイソスを救い出そうとしたが、火の手の勢いは止まず、哀れな亡国の王は焼き殺されようとしていた。クロイソスはアポロンの神に祈った。

 その時、晴れ渡っていた空には黒く分厚い雲が垂れ込め、突如誰も予想しなかった雨が降り、炎を消してしまった。キュロス2世はそれをアポロンの神の思し召しと受け取り、クロイソスを神に愛された徳者とみなした。伝えられるところでは、それからペルシアの王はこのかつての敵をご意見番として側近に置き、息子の代まで重用したという。

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薪の上で焼かれようとするクロイソス

 

 断っておくけれども、この話はエフェソスで起きた出来事ではなない。ここに物語を記したのは、エフェソスの歴史にかこつけて自分が好きなこの話を単に紹介したかったというのもあるが、エフェソスの歴史に大きく寄与をしたクロイソスという人のことを印象づけたかったからだ。

 

 ここエフェソスには、ギザのピラミッドやバビロンの空中庭園と並んで世界の七大不思議と目された巨大なアルテミス神殿があった。その起源は先にも述べたアマゾネスたちの母神信仰に遡ると伝えられ、青銅器時代(B.C3300〜B.C1200)には既に何かしらの建築物が存在したということが調査によって分かっている。クロイソスは紀元前7世紀の洪水によって崩落した神殿再建のスポンサーになったのだった。

 その後、紀元前4世紀、どんなことをしてでも後世に名を残したいと考えた一人の男が、神殿の木製部分に放火をした。神殿は破壊され、エフェソスの住人は彼を死刑とし、その名を書き残すことを禁じたが、テオポンプスというギリシャの歴史家が彼の名を自著に書いてしまった。それから、つまらないことをして獲得した名声のことを彼の名をとってherostratic fame「ヘロストラトスの名声」と呼ぶようになった。ちなみにサルトルは彼の話に着想を得て『エロストラトス』という短編を書いている。

 アルテミス神殿が火事で崩落したその日、後に大王として世界に名を轟かせるアレクサンダーがこの世に生まれ落ちた。アルテミスは、出産を助ける神としても知られており、アレクサンダーの誕生を助けていたがため自分の神殿を守ることができなかったのだと思われていたらしい。

 

 無事成長してマケドニアの王国を継ぎ、東征を始めたアレクサンダー大王はエフェソスを支配していたペルシア帝国を退ける。そして自らの誕生を援けてくれたアルテミスに兼ねてから心を寄せていた大王は、神殿再建のために寄進をしようとしたが、エフェソスの住人たちはその申し出を断ったという。理由は「神であるアレクサンダー大王が他の神の神殿を建てようというのは道理にもとるから」というものだった。当時の人々がいかに神という存在を捉えていたかということが伺える興味深い逸話だ。

   エフェソスの住民たちは自分たちの手で資金繰りをして、神殿を再建させた。その後600年近く損傷と修復を繰り返しながら生き延びてきた神殿は、紀元3世紀ゲルマン系のゴート人によって破壊され、キリスト教化していた当時のローマ帝国は注意を払わず、永遠に歴史の中に葬り去られることとなった。

 

 かくかくしかじか、長い歴史を経た現在のアルテミス神殿の姿はこれである。


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発掘された残骸を集めて建てられたたった一本の石柱だ。

 

 

 アルテミスは、アポロンの双生児であり、狩猟、貞潔の神だ。

 星座の中でもとりわけ有名なオリオン座は、もともとオリオンというポセイドンの子で、ギリシア随一の狩人であった。狩猟の女神であったアルテミスと意気投合し、次第に親密になっていったが、それをアポロンはよく思わなかった。アポロンはオリオンを嫌い、貞潔なアルテミスが男と関係していることにも我慢ならなかったのだ。アポロンは奸計によって、遠く海で泳いでいたオリオンの頭部を指差し、アルテミスに「あれを射ることができるか」と言った。それがオリオンであるとも知らず、戯れの腕試し程度に思ったアルテミスは、弓によってそれを撃ち抜いた。あくる日、浜辺に打ち上げられたオリオンの屍をみて、初めてアルテミスは自分が撃ち抜いたのはオリオンであったことを知る。その嘆き様を見たゼウスは、彼女をなだめるためにオリオンを天にやり、星座としたのだった。

 こんな悲恋物語めいたものもあるけれども、アルテミスは基本的にはその潔癖によって知られる女神である。自分に従っていたニンフ(乙女)がゼウスと交わったことに怒って熊に変えてしまったり、水浴中の裸を見られてその男を鹿に変えてしまったり。

 男をケダモノ扱いにして歯牙にもかけない、そして周りにはほとんど恋愛めいた憧れをもって付き従う後輩女子の取り巻きがいる。今でも女子校なんかにいそうなタイプの女子である。

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一般的なアルテミスの像

 

 だがそんなアルテミスも、ここエフェソスでは少し違った象徴性を帯びて信仰されていた。その姿がこれだ。

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 この像は、先に述べたアルテミス神殿の跡地から出土したものではなく、近くにあったエフェソスの都市の遺跡から発見されたものである。遺跡を案内してくれたガイド曰く、神殿まで行くのをめんどくさがった貴族たちが代わりに拵えたものだという。異形もいいところで、グロテスクと言ってもいいかもしれない。

 胸部から腹部にかけて垂れ下がっている夥しい数の卵型の物体は、当初は乳房であり、アルテミスの豊穣性を強調するものだと言われていた。しかし最近ではそれは誤った解釈であり、当時同じく豊穣性を象徴しており、供儀の対象となっていた牛の睾丸であるとも言われている。皆が一致する見解は未だないらしい。

 頭部から足元に向かってたくさんの動物の姿が彫られている。鷲、ライオン、豹、山羊、鹿、牡牛、蜂。これらの意匠は、森を駈ける獣たちの女神の側面を表している。

 こういった豊穣性を極端に強調する姿は、もともとアナトリアで信仰されていた地母神、豊穣神であるキュベレと習合した結果であるとも言われている。彼女はディオニュソスにワインの作り方や密儀を教えた神としても知られている。

 素朴で潔癖な村娘のような容貌で描かれることの多いアルテミスが、風土の影響を受けるとこんな風に姿を変えてしまう。

 

 実際に対面してみると、高さは2m以上はあったように思うが、かなり迫力があって、畏怖を感じる。インドにも戦女神ドゥルガーや、その変形である狂気のカーリーなどがいるけれども、やはりちょっと比べられるような感じではない。もっと厳粛で、どこか男性的な雰囲気も感じられる。

 地母神というと、柔和な母としてのイメージ、あるいはその正反対で、血なまぐさい、もっと混沌とした雰囲気を持っているイメージがあるけれども、このアルテミスは一見、どちらにも当てはまらないような気がする。実際にこの世にいたのなら、卑弥呼のようにシャーマンでありながら、リーダーシップをもって一つの国を率いていたかもしれない。

 私は歴史や神話学の専門家ではないから、あんまり根拠のある話ではないけれども、アルテミスがこのような姿になったのは、かつて女性が社会の中心でリーダーシップを取っていた、それこそアマゾネスだったのかもしれないが、そういう共同体が持っていたイメージの名残から来るのではないかという気がした。

 

 

 ディオニソスが東からやってくるように、ギリシャの人々にとっても、アジアというのはどこか混沌としたイメージを持って認識されていたようだけれども、このアルテミスの姿も、アテネの人たちを驚かせていたに違いない。

 インドでは死を司る神で、畏怖の対象であったマハーカーラが、日本では豊穣神となって、好々爺の姿で描かれる大黒天となった。同じ一つの神格が、異なる風土に出会うと、こうも形を変えてしまう。このアルテミスの像も、そうったシンクレティズムの一つの好例で、とても興味深かった。

 

 

 

続編、第二部に続く。

イスタンブールでのあれやこれについて、徒然と。

ヨーロッパとアジアが出会うところ

イスタンブールのあれやこれについて、徒然とつづる。

 

 トルコに来てから、もう二ヶ月もの月日が経ってしまった。

    いつもの無精がたたって、せっかくブログをつけようと思って出国前、はりきってサイトまで用意したのに、ここまでほとんど何も書けていない。

 

 これではまずいということで、おぼろげな記憶を辿って、一種旅行記のようなものを綴ってみたいと思う。ところどころ脈絡がなかったり分裂的だったりするけれども、徒然旅行記ということで、お許しいただきたい。

 

 なぜだかは知らないけれども、私の旅にはドラマティックな出来事はほとんど起こらない。旅が普通の生活のようになってしまって、日常も非日常もよくわからない。全てが日常のように感じ、新しいものに感動するということも、はっきり言って、ほとんどない。

    なんてつまらない旅人なんだと思う人もあるかもしれないが、それが現実なのだから仕方がない。

 でも一応、日本から遠く離れた外国で、日本ではあまり耳にすることのない音楽を聞き、日本では出会えそうもない人や風景に出会っているのだから、読者の方にとっては、何か面白く感じられる事もあるかもしれない。

 散歩がてらぶらぶらと森を歩いていて、たまたま目についた苔をよくよく見てみると、予想外の面白い姿をしていたりする。感動がない、とわざわざ宣言するこんな私の徒然旅行記を読んでくださる人にも、多少なりともそんな発見があることを祈る。

 

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 「日出づる処」、と言えば飛鳥時代、当時中国に君臨していた隋の王朝に向けて送られた国書に、自国日本のことを示す枕詞として記された言葉だ。

 

 しかしその日本が属する「アジア」という地理的概念の語源そのものが、「日出づる処」を意味する、と言われていることを知る人は少ない。

 実際には、「アジア」という言葉の由来については、いくつかの説が考えられているようだが、その内の一つに、asuという「昇る」を表すセム語族の語根がある。そこからアジアは「日出づる処」を意味する、という説が生じた。

 古代ギリシャの人々は、自分たちよりも東に位置する土地をアジアと呼んでいた。今私が暮らしているアナトリア半島、ボスフォラス海峡によって隔てられた現在のトルコ共和国の東側の土地のことだ。

  「歴史の父」とも知られている古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、「アジア」という言葉を用いてこのアナトリア半島を含めたペルシア帝国の版図を表していた。

 歴史では小アジアと称されるアナトリア半島だが、古代ギリシャの時代からローマに渡って、アジアと言えば主にこの土地、特に西部の一部の地域のことを指していたようだ。今でこそアジアはユーラシア大陸の半分以上の地域から海を隔て日本やインドネシアといった諸々の島国までカバーする大きな概念になったけれども、その元々の起源はここトルコに見出すことができる。

 

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 イスタンブールは、トルコ共和国最大の都市である。首都はアンカラだが、文化や商業の中心地はイスタンブールであると言っていい。人口は1500万人を数え、なんと東京よりも多い。そしてこのイスタンブールは、前述したボスフォラス海峡によって、ヨーロッパ側(オクシデント)とアジア側(オリエント)に分かれる。ちなみにこのオクシデント(Occident)、オリエント(Orient)という呼称は、それぞれラテン語で「日が沈む処」、「日が昇る処」という意味である。

 ギリシャ人の植民都市「ビザンティウム」として歴史に現れてから、東ローマ帝国の首都「コンスタンティノープル」、オスマン帝国の治世下では「イスタンブール」と、この土地は二度その名前を変えてきた。「コンスタンティノープル」であった時はキリスト教東方正教会の根拠地として、「イスタンブール」となってからは、オスマン帝国の首都としてイスラーム文化の下繁栄を極めたこの土地は、様々な文化的混交と変遷を経て、まさにヨーロッパとアジアが出会う場所と呼ぶに相応しい。

 さて、大分大雑把だがこれでイスタンブールの概略はお分かりいただけたと思う。これ以上は専門家の筆に任せることとして、この記事では一旅行者として、私が見たイスタンブールについて記してみたいと思う。

 

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雲ひとつない空、

陽光を受けてきらめくマルマラ海を背景に、

焼き土色の屋根を戴く家屋が、緩やかな丘陵の上に連なっている。ところどころに見える青いドーム状のモスクの脇では、ミナレットが天を突くようにして立つ。

 


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 ミナレットからはアザーンという、コーランの章句を朗詠する祈りの声が聞こえてくる。今でこそ拡声器によって、車や都会の騒音にも負けないぐらいの大音量で鳴り響くようになったが、かつては実際に人間が塔に登って、街中に聞こえるよう高らかに吟じていたというのだから、その音響はどんなものであったのかと、機械以前の時代に想いを馳せる。日に5回聞こえるアザーンと、飛び交うおびただしい数のカモメの鳴き声が、この街のBGMだ。

 

 

 

 第一次世界大戦後、弱体化したオスマン帝国のカリフを退け、革命によって共和制国家を実現した建国の父、ケマル・アタテュルクの意志は、トルコを西洋的な近代国家とすることだった。それゆえに、世俗主義(Secularism)を国是として、政教分離を図った。それまでトルコ語を表現するのに用いられていたアラビア文字ラテン文字に置き換えられ、宗教学校は廃止、神秘主義教団の道場などは解散させられた。その政策は公共の場所でのイスラム式礼服の着用を禁じるなど、国民の生活にまで及んだ。

 


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(黒い帽子を被っている碧眼の男がケマル・アタテュルク。アタとは父、テュルクとはトルコのこと。文字通り彼はトルコの国父なのだ。トルコに来てからはいたるところで彼の絵や写真を目にする。)

 

 そういった背景もあって、他のイスラム系国家で見られるブルカ(女性が全身を黒ずくめの布で隠す衣装)は、イスタンブールではほとんど見ることがない。

 しかし今現在ヒジャブ(頭髪を隠すためのスカーフ)は割とポピュラーなようで、街を歩いていると、ざっと見て2割から3割くらいの女性が身につけている。とても上品でお洒落な着こなしをしている女性も多い。イスラームの伝統的衣装と近代的ファッションがうまい具合にマッチングしていて、自然で美しい。

 

 私が面白く感じたのは、そういったムスリムの女性も、公衆の面前で平気でタバコを吸っていることだ。インドでは、西洋化が進んでいるよっぽどの大都会や観光地でなければ、公共の場で女性がタバコを吸っている姿はほとんど見られない。ヒジャブについても、宗教性はもとより、ファッション感覚で身につけている人も多いという。そんなところからも、トルコの民衆がどれだけ近代的な価値観を受け入れてきたのかということが伺える。

 

 そういった現状が、急速にイスラム化を進めている現今の政権の方針とどれほど関係を持っているか私には量りかねるけれども、大規模なモスクの建設を推し進め、モスク周辺でのアルコールの販売を禁ずるなど、明らかに宗教性を強めようとしている政権に反発する人も多いようだ。

   6月には、イスタンブールの市長選があり、路上では現政権を批判するデモ行進や、対抗馬を支援するキャンペーンの集まりなどが頻繁に見られた。どちらも若い人がたくさん参加していて、スピーカーからはヒップホップが流れていたのが印象的だった。投票率はなんと84.4%。選挙の日、イスタンブール在住の私の友人の家には、地方に住んでいる家族が投票のために集まって、まるでお祭りにでも繰り出すかのように意気盛んに投票所に向かっていった。

 

 

 

 イスティクラルと呼ばれるヨーロッパ側の大通りには、ブティックや土産物屋が立ち並ぶ。ところどころにトルコアイスの露店が出ていて、口髭を蓄えた大柄の男が大音量のダンスミュージックに合わせ、長い棒でアイスクリームを日がな一日突き続けている。その脇には、長い欠伸をしている猫が一匹、二匹。

 

 イスタンブールは、猫の街と呼びたくなるぐらい、猫が多い。ストリートで暮らしている猫もそうだけれども、私が知る限りほとんどの人が家で飼っている。飼っていないとしても、餌を器に用意し、家の窓を開け放しておくことで、いつでも外から猫が入ってきてご飯が食べられるようにしている人もいる。

 ムハンマドが猫を敬愛したというのが由来で、ムスリムの人々は猫を愛でるとは聞いていたが、まさかここまでとはと驚いた。そして猫たちはというと、人が餌をくれるのをいいことに、一日中、寝転んだり、遊んだりして暮らしている。

 

 私が宿を借りていたあるトルコ人の友人は、街の中心地に家を借りていて、その便利な立地を活かし、AirBnBで部屋を旅行者に貸し、その収入で暮らしている。そんなに広くもない家には3匹の猫がいて、夏で暑いということもあってか、最も涼しい場所を探して、一日のほとんどをそこでゴロゴロして過ごしている。そしてその友人も、一日のほとんどをゴロゴロして過ごしている。飼い主の性格が猫に現れているのか、はたまたその逆かわからないけれども、見ているとほとんど同じような暮らしぶりである。

 もちろん、年がら年中そうしているわけではなく、次に長旅に出る前の一種の充電期間のようだったけれども、それでもここまでのんびりして、あっけらかんとしているのは、すごいことだと思った。念のために言っておくけれども、これは皮肉で言っているわけではない。

 私には、何かを達成しなければならない、そのためには時間を惜しんで常に努力をしなければならない、という強迫観念が少なからず存在していて、のんびりしていると罪悪感を感じ始めてしまい、仮に身体的にはゴロゴロしているようでも、心の中には暗雲が垂れ込め、雷が鳴り、違うゴロゴロが始まってしまう。その結果うまく休むことができないという、馬鹿みたいな悪癖が存在する。

 でもその一方で、生きているからには何かを達成しなければならない、というのは、何か窮屈で、貧しい哲学のようにも感じている。もちろん、情熱を持って何かに取り組むというのは素晴らしいことだし、生きる活力を与えてくれる。でもそれが社会の暗黙の了解になって、何かに情熱を持って努力をしていないと生きている意味がない、という恐怖に人が支配されるようになっては、本末転倒ではないだろうか。

 昨今は、「好きなことをして生きていく」だとか、「場所に縛られない自由な生活」といった標語がメディアに溢れているけれども、それはやはり、その人に大多数の人よりも秀でた能力があるからこそできることであって、そういった価値観が行き過ぎると、情熱や卓越した能力を持っていない平凡な人たちを蔑ろにするような社会になっていきはしないだろうか。

 例えば古代中国の思想家である荘子は、人のためには何の役にも立たないからこそ伐られずに済み、長生きして大きくなれた木を例にとって無用の用、ということを言っていたけれども、そういう価値観について、もっと積極的に語っていい時代に私たちは差し掛かっていると思う。とにかく新しい価値を生み出すことに躍起になっているこの世界は、物やサービスの欠乏によってではなく、その過剰によって滅びようとしているのだから。

 

 ちなみに「好きなことをして生き」、「場所に縛られない自由な生活」をしているのは私のことではないか、と思われる読者の方があるかもしれないから言っておくが、私はそのどちらでもない。

 例えば私は、手放しで旅が好きなわけではない。重たい荷物やギターをもって移動するのはくたびれるし、安宿や人の家に泊まって、他人と同じ空間で暮らすのはどちらかというと苦手な方だ。もちろん、それでも旅をするには理由がある。各地の文化や歴史を、その土地に直接触れて学びたいから旅をしている。何が言いたいのかというと、やりたいことをしていても、やりたくないことを完全に避けることはできない。どんな生き方をしても、同じことが言えるのではないだろうか。

 そしてはっきり言ってお金を稼ぐのが苦手な私は、場所に縛られまくりである。物価が高い国にはどうしても行くことを渋ってしまうし、安宿や人の家にお世話にならなければこんな暮らしを続けていくことはできない。そういう条件の下でやっと生活が成り立っているわけだから、これを自由と呼ぶことはできないだろう。

 なんだかとても残念な証明をしてしまったが、事実だ。

 ではお金がなかったら自由にはなれないのか、という話になってしまうのかというと、そういうわけではないと思う。でもこれは、「自由」とは何か、というとてもディープな話になるので、今回は触れない。

 

 さて話をぐーっと遡る。あまりにひどい脱線をしてしまった。何事もなかったかのように時を巻き戻そう。

 とはいえ、一日中ゴロゴロしているというのは、聞く人によってはちょっと印象がよろしくないかもしれない。弁解のために言うわけではないが、そんな彼女が拵えてくれたトルコ風のサラダは、今までに食べてきたサラダの中でも群を抜いて美味しかった。

 レタスに、バジルにコリアンダールッコラ、パセリにフェンネルの葉を加え、若い緑ネギを添える。トマトと胡瓜、パプリカのスライスに、それほど辛くない緑色の唐辛子。これらの野菜を、実家の庭でとれたオリーブから作ったと言う手作りのオリーブオイルとレモンで和え、ヒマラヤンソルトを一つまみ。シンプルだけども素材の香り豊かな、トルコ風のサラダの出来上がり。ドレッシングなどかけなくとも、レモンと塩、上質なオイルさえあれば、それで充分である。シンプルな味付けが好きな方は是非お試しあれ。

 

 

 話は変わるけれども、そういえばこんな出来事があった。同じ友人の家にお世話になっていたとき、確かイランからだったと思うが、一人の女性旅行者がAirBnBを通じてやってきた。友人から、彼女はムスリムだから、見知らぬ男の人とはコミュニケーションがとれない、その点を了解しておいてくれと予め聞いていたが、蓋を開けてみたらそれどころではなかった。

 夜、話を踏まえて大人しく部屋で読書などをしていると、誰かお客さんが来た風の物音。例の客が来たのだな、と思って変わらず読書に没頭し、しばらくしたあと尿意を催して厠に立った。部屋を出ると友人がいて、様子を伺うと彼女はもう去ってしまったという。

 なぜかと聞けば、知らぬ男の人が泊まっている家で寝ることはできない、同じトイレを使うことなどできないと言って、夜中であるにも関わらず重たい荷物を抱えて帰ってしまったそうだ。そこまで厳格なのかと、少々驚いた。

 

 トルコを旅していると、これまであまり縁のなかったイランやイラク、いわゆる中東出身の人に出会うことがある。インドに滞在していたときも、こちら方面出身の人にはなかなか出会えなかったので、トルコに来てぐっと世界が近づいたような実感がある。

 特に印象に残っているのは、友人の紹介で借りた部屋のフラットメイトだったバワールという男だ。彼はクルド系のイラン人で、向こうの大学で英文学を専攻し卒業、今はこちらの大学にお目当ての教授がいるらしく、その人のもとでクルド文学を学びたいと言っていた。クルド人にまつわる政治の話や、ペルシアの神話シャー・ナーメにある父の子殺しと、ギリシャ神話のオイディプス王にある子の父殺しの象徴的解釈、ジェイムズ・ジョイスが英語使いにどれだけ長けているのか、といった様々なことについて話をした。

 彼は大学で英文学を専攻しただけあって、西洋文化にも精通しているような印象を受けたけれども、イランを旅してきた旅行者に話を聞くと、イランは西洋の影響が未だに薄く、神秘的な伝統文化が色濃く残っているという。治安についてもとても安全で、これはイスラム諸国一般に言えることだけれども、旅人はとても厚いもてなしを受けるそうだ。夏はあまりに暑くて旅どころではなさそうだけれども、いつか冬に訪ねてみたいと思う。

f:id:apoptosis777:20190804052606j:imageクルド系イラン人のバワールと

 

さて、次回はイスタンブールでの音楽生活について書いてみたいと思う。トルコ音楽の独特な音階やリズムについても触れてみたいけれども、私はイスタンブールではほとんど南米のクンビアという音楽を演奏していた。というのも、そこで活動しているクンビアのバンドの路上演奏活動に混ぜてもらっていたからだ。どうしてそうなるに至ったのか、そんな経緯も含めてお伝えしよう。

 

他にも、イスラム神秘主義教団のスーフィの集いに参加したお話など、順次記していくつもりだ。

 

随分漫然とした旅行記になってしまったにも関わらず、ここまで読んでくださった方に感謝。

旅と自由

家を持たず、旅暮らしを始めて4年の月日が流れた。

禅には「行雲流水」という言葉がある。

文字通り、雲のように行き、水のように流れる、という意味だ。

何ものにも囚われず、淀みなく、滞りなく生きるということ。

 

旅人は、自由人だと思われがちだ。

確かに僕たちは、朝夕の満員電車や、せっかくの休日を混雑した行楽地で過ごさなければならない憂き目を免れている。

行きたいところがあれば、どこへだって行ける。

お金があれば航空券を買って、極端な僻地を除けば、世界中どこへだって二日も三日もあれば飛んで行ける。

最悪お金がなくても、ヒッチハイクをすればいい。中には好んで国から国を自転車で越えて旅をしたり、歩いていく人さえある。

 

それでも、それは相対的な自由に過ぎない。

ある場所に定住して、決まった仕事を毎日こなし、家族を養い、財産を守る。

そういった一般化された生活の形式と比べてみて、

空間の移動や、時間のやりくりの裁量が、自分に委ねられている部分が大きいというだけだ。

 

旅をするには、お金が必要だ。

もちろん、全くの無一文で、お坊さんのように人の厚意に与って生きていくことも、不可能ではないと思う。例えばインドだったら、寺院やアシュラム(ヨーガを学ぶ道場のような場所)に滞在すれば、お金がなくとも寝床と食事には困らないだろう。

またCouchsurfingのように、自宅の空いているスペース(Couchとはソファーのことだ)を、寝床として無料で旅人に提供するネットワークや、

WorkawayやWWOOFといった、労働力の対価として寝床や食事が得られるようなシステムが段々と広まってきて、少ない予算でも長期旅行をすることは容易くなった。

それでもやはり、食うにも困るほどの経済状況で旅を続けるのは、長期的にみれば現実的ではない。

つまり旅人がいくら自由人のように見えても、当然のようだけれども、ある程度お金に依存していることには変わりない。

 

また、土地々々には宗教をはじめその文化に由来するルールや慣習といったものがあり、

そういったものを無下にするような人は、結局は爪弾きにされてしまう。

これは人間社会に限ったことではない。アフリカのサバンナにいる動物達だって、水飲み場のどこが自分達に割り当てられているのか、といったことを気にしている。

他者のテリトリーを物理的にしろ、精神的にしろ侵すものは、歓迎されないのがこの世の常である。

いくら旅人といっても、こういった条件を守って初めて、他所の土地の人に受け入れられ、暮らしていくことができる。

旅の恥はかき捨てといって、身勝手な振る舞いをしていては、結局はそのツケをいずれどこかで払わなければならないハメになる。

 

結論を言えば、旅人だからといって、そういった諸条件からは全く自由ではないのである。

こんなことを言うと、もしかしたら怒る人もいるかもしれないが、僕はこの生活を自由だと思ったことは一度もない。(例外を述べるならば、オーストラリアのタスマニア島で、ほかに人気のない自然の中ひたすらキャンプをして暮らした数ヶ月)

旅をしながらお金を稼ぐにはどうすればいいのか。

僕の場合は、どこのストリートで何時に演奏すればよいのか、といったようなことや、

次にどこに行けば、自分が一番学びたいものを学ぶことができるのか、会いたい人に会えるのか、

そんなことを常に考えて、無数にある選択肢の中から、一つを選び抜かなければならない。この作業は、物理的にも、精神的にも、なかなかの労力を要する。時には何も決められず、徒らに考え過ごし、くたびれてしまうことだってある。

 

その一方で、定住し、毎日仕事をはじめと決まったルーティンをこなす暮らしは、退屈に感じることもあるかもしれないが、定まった時間の中で、集中して物事にあたることができる。多くの時間は仕事にとられてしまうかもしれないが、毎日決まった時間に1時間勉強する、なんていう習慣を保つのは、こちらのほうがかえって楽だったりする。

移動を常とする暮らしは、行き先の判断から寝床探し、何をどこで食べるか、といったような、定住をしているときには必要のない心配に、想像以上にエネルギーを費すものだ。

 

まあ、こんな話は無い物ねだりのようなものなので、これ以上追求はしないけれども。どんな物事にも色々な側面があって、実際にやってみないとわからないことがあると思うので、少し説明させていただいた。

 

さて、話を戻そう。

 

もっと根本的な話になってしまうけれども、

僕は、この世に全く孤立して生きているわけではない。

僕の幸せを願い、それを自分のもののように感じている両親や、両親ほどでなくても、喜びや悲しみを共有する友人たち。

そういう人々のためにも、幸せな人生を歩まなければならない責任を帯びて生きているのだと、僕は思っている。自分の人生を呪って死んでいかなければならないような生き方は、何としてでも避けなければならない。

そして、この責任を果たすことは、僕の目からすれば、とても難しい。誰もがそれに則れば幸せになれるマニュアルなんていうものは、ないのだから。

 

人は、自由意志を持っている(思い込みという可能性は捨てきれないけれども)。

そういう意味では、旅人であるにしろないにしろ、僕たちはみな自由である。皆それぞれに様々な条件があるとはいえ、自分で選択して今この生活を生きているのだ。

しかしサルトルはそれを、「人間は自由の刑に処せられている」と表現した。そういう意味では、自由とはとても重たいものである。僕は時折、そのあまりの重圧に、押しつぶされそうになってしまうことさえある。

 

 

でも、「自由」って、ほんとうに、そんなに重たく、抱えるのに難儀するお荷物のようなものなのだろうか。

僕は高校生のときにそのサルトルの言葉に出会ってから、ずっとこの疑問を抱えて生きてきた。

そこには何か矛盾があるような気がする。

「自由」という言葉には、どこか軽やかな、大空を飛翔する鳥のような、鷹揚とした響きがある。僕はその「自由」が、一体どんなものなのか、知りたいと思っている。

旅をしていようが、していまいが、静かな海辺でゆったりと夕凪を眺めていても、牢屋に繋がれていても変わらないような「自由」。そんな自由が得たいと思って、僕はこの人生を生きている。

 

 

 

僕のような長期旅行者は、よほどの収入かあるいは財産がある人でない限り、豪華なホテルに泊まって好きなものをいくらでも食べ、毎度の移動にプライベートタクシーを使ったりすることはできない。

地元の人たちが行くような、安価な大衆食堂のような場所を探し、

何も読めない外国語のメニューから、なんとか探り探り注文をして、結局届いた食べ物が全く口に合わなかったり、

予約したバスが故障したからと言われ、いきなり違う車両に押し込まれ、席が埋まっていて仕方なく床の上で寝る、なんてことも珍しくはない。

不本意でも、それを受け入れる以外に選択の余地がない状況は、旅をしていればしばしば出くわすものだ。

そんな時に、不満を抱いて、いつまでも苦い気持ちでいるのか、

あるいはこれはこれで仕方がないことだ、と諦め(明らめ)て、そんな状況を笑い飛ばしてしまうか。

 

一つ、具体的なことを言うのなら、

この後者の態度に、その「自由」に至るための鍵が隠されているように思われる。

 

それは単に受動的に、消極的になって、「こんなもんでいいや」と、どこか納得できないまま人生を妥協する態度とは違うのだと思う。「明らめる」にはもっと透き通った、清々しさがあるはずだ。

「行雲流水」のように生きるには、この「明らめ」が必要なのだと思う。

物事をほんとうに明(あき)らめる、というのは、どういうことなのか。

その答えを今生で得るのが僕の望みである。